バリ日記1

5月13日(水) バリまで


荷物はショルダーバック一つに収まった。
着替えを三日分と文庫本一冊。
それに再発行したばかりのパスポートに歯ブラシセット、メガネケース、ハンドタオルを一枚。
空港の免税店でラッキーストライクのメンソールを1カートン買っても、まだバッグには余裕がある。
物価の安い国に行くのは気楽でいい。
必要なものを現地で買い足しても、大した負担にはならないから。
事前に仕入れた知識はほんの少しだけだった。
バリは、イスラム教徒が大半のインドネシアの中でも特異な、ヒンドゥー教徒の多い国らしい。
1円が107ルピア。
ガイドブックで覚えたいくつかの挨拶。
日本語も英語もある程度通じるらしいから、それくらいで後はなんとかなるだろう。
16時過ぎには、機中の人になっていた。
道中の楽しみは機内放送と飲食に限られる。
その機内放送に、『グラン・トリノ』があって大喜び。
ファーストクラスとビジネスクラスならオンデマンドで観られるのだけど、エコノミーだと一斉放送にこちらが態勢を整えなければいけない。
出発と放送開始をおとなしく待つ。
飛行機の小さなディスプレイだと、字幕の出方が少し変わっている。
フルスクリーンと同じサイズの文字では読み取れない。
かといって、情報量を少なくしすぎると字幕の意味を成さない。
そんな事情のバランスを取るような、訥々とした字幕。
それでも吹き替えよりはマシだ。
クリント・イーストウッドの味のある老い方に惚れ惚れとしながら鑑賞する。
スーが顔を腫らして帰って来るあたりから、胸にこみ上げるものを感じる。
正義と、報復と、殉死と、「グラン・トリノ」。
心地よい涙を流しながら、いま受け取りつつあるグラン・トリノと、これから渡さねばならないグラン・トリノのことを思う。
続けて、『愛を読む人』を観る。
アウシュビッツと職業倫理と文盲と愛。
文が無意味であるはずのないことを、幾度も力強く届けてくれる人々がいる。
そういえば、文化とは「文」化なのだった。
文。
文。
文。
まだ考え続ける必要がある。
機中で消費したアルコールは白ワインの小ボトル(330ml)2本、赤ワインの小ボトル1本、ジントニック一杯。
ジントニックを注文したところでCAから
「大丈夫ですか?」
の声が掛かる。
ええ、ほどほどにしておきます。
飛行中にすべての乗客に三枚の書類が渡される。
豚インフルエンザの影響で、書かなければいけない書類が多くなっている。
10時過ぎにデンパサール国際空港に到着。
物々しい雰囲気で、検疫が行われている。
マスクをした係官が、渡航者を一人一人特殊なゲートに通す。
プシュッという音とともに、身体には圧縮空気が、両手にはアルコールらしき液体が掛けられる。
魔除け程度の効果だ。
とは思いながらも、豚インフルエンザに過剰反応しているのが日本のメディアだけではないことを知って、安堵するような気持ちもある。
面倒な話だ。
空港内の両替レートは一円103ルピアで統一。
だいぶ安いなとは思いつつ、ネットで調べた「街中が一番レートが良い」という話を信じて、千円だけの両替に留める。
空港を出ると、H・I・Sの看板を手にしたバリ人のガイドが待ち構えている。
タバコを一本吸ううちに客が揃ったらしく、移動して駐車場のワゴンに乗り込む。
三十分程度でクタのホテルに到着。
ウェルカムドリンクと称してオレンジジュースが振舞われるが、すぐに部屋に移動させようとするばかりで、のんびり飲む時間も貰えない。
おいおい、それじゃ逆効果だよ。
すぐにホテルを出て、近くにあるKマート(コンビニ)でビンタン、という地元銘柄のビールを一本買う(19.000ルピアほど)。
静岡の大学に留学していたというバリ人が、しきりに話しかけてくる。
「ヤバくね?」を連発してものすごく煩わしい。
カウンターの後ろにあるタバコの棚を見て驚愕。
空港の免税店で買ったタバコは2200円ほど、つまり一箱220円だったのだけど、バリのコンビニでは8.500ルピアで売られている。
免税店よりずっと安い。
失敗を痛感しつつ、バリの物価への期待も膨らむ。
部屋に戻って妻と乾杯。
すぐに眠りに就く。