原罪モデルとスーパースター

人は誰もが「疚しさ」を抱えて生きている。
この疚しさは、どこかにルールやタブーがあり、それを破った自覚から生まれるものではない。
誰もがすること、生きていく上で必要なこと、そのようなことを、誰もがするようにしていても人はどこかに「疚しさ」を感じてしまう。
「疚しさ」の感覚はどこにも由来しない。
にも関わらず、人は自らを恥じ、また劣ったものと感じている。
そのような感覚の発生機構が、人間には生得的に備わっている。
「疚しさ」は人間存在の重要な本質の一つである。
そう私は考えている。


キリスト教的世界における「原罪」という概念(人間は生まれながらにして「罪」を背負っている、という例のアレだ)は、そういった誰もが感じる「疚しさ」に対して与えられた「物語」である。
エデンの園でアダムとイブは知恵の実を齧った。
ゆえに、二人は楽園を追放された。
それが「原罪」の起源である。
旧約聖書はそう語ることで、誰もが感じる「疚しさ」の感覚に「理由」を与えた。
人は己の感じる「疚しさ」には何の根拠もなく、永久にそれが払拭されることがないという事実よりも、発生の理由と解決の可能性が示されることを好んだがために、その物語は広く受け入れられることになった。


私はここで、上述したような人間の生得的な疚しさの感覚(罪悪感、と呼んでも勿論構わない)を利用して構築された制度のことを、便宜的に「原罪モデル」と呼ぶこととする。
ここで語ろうとしているのは、「原罪モデル」を規範とする企業がいかにして人間をコントロールするか、というひどく現世的な事案についてだ。


前もって断っておかなければいけないことが一つある。
それは、人は自らの行動原理を理解して行動しているわけではない、ということだ。
彼らは意図してそのような事態を発生させてはいない。
ただ自らがその制度の中で育てられ、すべてはそのように取り計らわれねば
ならないということを、自らが信じていることも知らずに信じているだけの話である。
「罪を憎んで人を憎まず」という俚諺を思い出していただければ、状況を理解する一助となるかもしれない。


さて、彼らの(無論、私たちも容易にその一員となりうるのだが)手法についてである。
それは「不可能な要求をする」という一事に尽きる。
私たちが現在の能力、知識、人脈といったあらゆるリソースを費やしても達成不可能な目標を提示すること。
それが彼らの手法の原理である。
あまりに単純なので、拍子抜けされたかもしれない。
しかしその効果は絶大である。
そのような状況下に置かれた人間は必ず失敗する。
失敗させることが目的なのだから、それは必然である。
だが、人はその失敗を必然的なものだとは思わない。
必然的だと思うとすれば、それは目標を提示された瞬間に「アホちゃうか」と言いたくなるような馬鹿げた目標を提示されたときだけである。
そうではなく、一見合理的で到達可能に見える目標を提示されていたとき、人はそれを自らの「未熟」ゆえの失敗だと思うのである。
そこに「原罪モデル」のからくりが存在している。
自らの「未熟」、あるいは「劣等」を恥じる人間には、二つの道が用意されている。
一つは「自らの未熟、劣等、不能を深く自覚し、卑小な存在として己を定義する道」である。
もう一つは、「自らの未熟、劣等、不能を『克服』しようと不断の努力を継続する道」である。
どちらの道を選ぶかの決断には、その人間に元々備わっている能力はほとんど関係がない。
まったくの無能者でありながら後者の道を選ぶ人間もいれば、非常に有能でありながら前者の道を選ぶものもいる。
そこにあるのはただ、「意志」のみである。
自らの未来をどちらに賭けるか、「知足」と「克己」のどちらを選択するか決断する、「意志」だけがある。


ところが、ごく稀に、到達不可能であったはずの目標を達成してしまう人間が現れる。
「スーパースター」である。
スーパースターの出現によって、原罪モデルは完成する。
スーパースターとは到達不可能なはずの目標を達成する人間であり、失敗しない人間であり、それゆえに周囲のすべての人間に憧れと畏れを抱かせ、また「未熟」の自覚に至らせる存在である。
その存在は、原罪モデルが提示した目標を達成してしまうことで、その目標の非合理性を隠蔽する。
目標が達成可能であったことを、裏書してしまうのである。
多くの場合、スーパースターは演出と神話化によって創り上げられる。
ごく稀に、本当に自力で目標を達成する人間が現れる。
企業は、そのようなスーパースターにスポットライトを当て、その存在を喧伝する。
そうすることで、多大な効果が得られるからである。
スーパースターの存在を知った普通の社員はこう考える。
私は賃金に相当する働きをしていない。
私は能力の不足を、長時間労働によって埋め合わせなければいけない。
結果、「賃上げ要求」は停止し、「サービス残業」は増大する。
それが完成された原罪モデルのもたらす効果である。
企業はこうして、一見スーパースターを求めているように振舞いながらも、本当に求めていたものを手に入れる。
低賃金で長時間労働する労働者達である。


私は現在の不況を憂慮している。
だがそれは、経済や生産が停滞することによって、私自身の物質的生活が貧しくなることを危惧してのことではない。
私は生きて書き、読んでもらえればそれでいい。
そうではなくて、企業が利益確保の為に手段を選ばなくなることを危惧しているのである。
あるいは私が気付いていないだけで、多くの企業がすでに悪魔の囁きに耳を貸してしまっているのではないかと危惧しているのだ。


もしもあなたの働く会社で、不可能なノルマが課されていたら、模範社員の行動が逐一報告されていたら、そのためにあなたが過剰な苦しみを味わっていたら、あなたの会社は「原罪モデル」を採用している可能性があります。
働くのが苦しいのは、あなた自身の能力の低さが原因ではありません。
あなたがそう考えるように設計された制度があるのです。
だから、あまり自分を責めないでください。
叱られたって、気にしなくてもいいんです。
もちろん、できるようになることがあるのなら、できるようにしたほうがいいんですけどね。
選ばなければ、仕事ってけっこうあります。
だからいざとなったら、逃げ出しちゃいましょう。
もしもあなたが貯金もなくて、不愉快で先行きの暗い職場で働き続けなければいけなくなっているのなら。
笑顔と、愚痴を言い合える友達が助けになります。
愚痴を聞いてくれる友達がいないんなら、僕が聞きます。
そうやって当場を凌いでいれば、そのうちなんとかなります。
そんな感じで、気楽にやっていきません?