(続)喫煙について

次に掲げる「いかに語るべきでないか」は、最初の方向性から必然的に導かれる。
それは「非喫煙者が依拠する情報を根底から否定すべきでない」ということである。
私はタバコの害に関する情報を100%信用しているわけではないが、100%否定しているわけでもない。
否定してしまえば、それは当然先方の「誤り」を指摘することとなり、前に列挙したような事態を惹起する可能性が高い。
それは避けたい、というのが私の考えである。


では、以上の2点で方向性をある程度限定したところで、本格的な議論を始めたいと思う。
喫煙擁護派の急先鋒として名高い養老孟司は、「タバコの害を証明できればノーベル賞ものだ」という主旨の発言を繰り返していることで知られている。
自身喫煙者である養老孟司だが、科学者である以上、「反証可能性」に対して開かれていない、ということは考えにくい。
自説と食いちがう実験結果に対して真摯に向き合うことは、科学者として当然の倫理だからである。
となれば、この発言は反喫煙的言説に対する素朴な反感の表明であるよりも、「タバコの害」の実証基盤であるところの「疫学」に対する異議申し立てである可能性が高い。
タバコの害に関する疫学的研究の手法について簡単に説明しておこう。
まず実験参加者を「喫煙者」群と「非喫煙者」群に分けて経年観察し、「喫煙者」群にのみ特異的な症状が表れたケースにおいて、「喫煙」と「症状」の因果関係を認める、というのが(私が理解している範囲内での)その内容である。
この手法を「科学的でない」と断じる背景には、科学の条件であるところの「再現性」および「予見性」の欠如があると考えられる。
例えば、ある喫煙者が肺がんに罹患した場合であっても、その肺がんの原因が喫煙にあると断定することはできない。
喫煙は肺がんのリスク要因ではあるが、必要条件ではないからである。
こう表現したほうがわかりやすいだろうか?
私達は、「肺がんにかかった喫煙者の『対照実験』を行うことはできない」のである。
ある要素を原因として特定するためには、その要素以外の条件を完全に同一にした「対照実験」が必要となる。
だが、こと人間に関して言うならば、同一のDNAを持ち、同一の環境において同一行動を行うことができる「別人」というものは存在しない。
私達は、「その人がタバコを吸わなければ肺がんにかからなかったこと」を証明することができないのである。
また「予見性」の欠如とは、「これこれの条件を満たせば必ずこうなる」と言うことができない、ということである。
統計的確率的に、「一日20本以上吸う喫煙者は、非喫煙者よりも寿命が○○%短くなる可能性が高い」とは言えても、必ずしもそうなるとは限らない、ということである。
いや、こうしてくだくだと書いてしまうことが不毛な論争の温床になるのだろう。
私が言いたいのは、仮に「タバコの害を実証することはできない」のであったとしても、喫煙は健康を損ねる恐れがあることに同意する、ということである。
そのことによって、私達は議論を次のステージに進めることができる。
すなわち、「タバコには害があるかないか」ではなく、「リスク評価」および「リスクを引き受けることの是非」についての議論に移れるだろう、ということである。
私は「リスク評価」に関して、過剰であると感じている。
特に「受動喫煙」や「副流煙」に関する議論においてその傾向が著しい。
私が小学生の頃、体育館で「タバコの害」に関する実験映像を見せられたのをよく覚えている。
マウスを閉じ込めた瓶に、副流煙をじわりじわりと流し込んでいく。
するとマウスの動きは次第に緩慢になり、やがて動きを止めて絶命する。
そのような映像を見せられて、「タバコは身体に悪い」ことを切々と説かれていたわけである。
だが、そのような実験は自然状態からは程遠く、印象操作の感ばかりが強い。
副流煙が主流煙の数倍の毒性物質を含んでいたとしても、受動喫煙する人物がそれを喫煙者が主流煙を吸引するのと同程度に吸引することはありえない。
また当然のことながら、受動喫煙する人物に届くまでの間に、副流煙は数十倍に希釈されているはずである。
にも関わらず、話題に上るのは「原副流煙の毒性」ばかりであることには、疑問を抱かずにはいられない。
単に「ニオイが嫌い」であることを表明する際の言葉に、科学的装飾を施しているというのであれば、私はこのように反論させていただきたいと思う。
私にも街中を歩いていて「嫌い」だと感じる匂いはあるが、それに対して公的言説を背景に非難をぶつけようとは思わない。
「リスク評価」に関しては以上である。
では、「リスクを引き受けることの是非」に移ろう。
私の正直な所感を述べさせていただければ、私達は、「あらゆる状況において常にリスクを引き受けている」。
ただそのリスクが前景化されている場合と、そうでない場合があるのみである。
ある行動を取るとき、私達は「それ以外の行動を取らない」というリスクを引き受けている。
それは逃れようのないリスクである。
もしもこれが「詭弁」としか思われないのであれば、また別の方向から論じてみることにしよう。
私たちが口にする食物や飲料の成分が、科学的に完全に解明されていることは稀である。
いや、おそらくは、たとえ成分が解明されていたとしても、その成分の「働き」まで完全に解明されていることはありえないだろう。
私達に分かるのは、私達が分かることだけである。
私達が知らない成分やその働きは、私達が日常的に摂取しているものにも内在している。
ただ私達がそれを強くは意識しないだけの話である。
これまで「タバコの害」の研究のために費やされてきた膨大なコストを別のものに振り向けていたならば、きっとどんなものからも「有害物質」や「発がん性物質」は発見されるだろう。
それがされてこなかったのは、タバコ以上に「害があると想定される嗜好品」が存在しなかったためのように私には思われる。


ずいぶん長く書いてしまった。
最後に、嫌煙家および禁煙推奨者の皆様に伝えておきたいことを書いておく。
私は、おそらく健康を大事にしていると思われる皆様方と同様に、日本が世界一の長寿国であることは誇るべきことだと考えている。
また、平均寿命が世界一になったことで、次はQOLの向上を目指そうとするのも自然な世論の推移であろうと思う。
さらに言えば、社会保障制度の更なる充実を期待することの難しい現代の日本において、市民一人一人が自覚的に自らの健康を守っていく姿勢は、紛れもなく好ましいものである、と感じている。
だが、その論調は時にあまりにも性急ではないだろうか。
その結果として、あまりに喫煙者に対して侮辱的な態度を取る人が多くはないだろうか。
私は一人の喫煙者として、そのようなささやかな問題提起をさせていただきたかったのである。
喫煙者はこれまで、ほとんど無抵抗のうちに様々な条件を受け入れてきた。
正規の料金を支払い、多額の税金を納め、携帯灰皿を購入し、他人に煙が行かないように配慮し、狭い喫煙所に閉じ込められても不満は漏らすまいとしてきた。
今回の増税も、(本来的には)黙って受け入れるつもりでいたのである。
ほとんどの良心的喫煙者は、私と似たような心持ちでいたと(希望的観測ではあるが)考えている。
ほんの少しでも、これを「取り引き」のスキームで考えてほしいと思うのは僭越なことだろうか。
私達はかなりの度合い、譲歩してきたのである。
その事実さえ認めていただけるなら、私達は非喫煙者の皆様と妥協点を見出せるのではなかろうか。
それとも、私達は永遠の愚者として蔑まれ続けるのだろうか?


おっと、「簡潔な一言」を模索するのを忘れていた。
「そうですね、そのうち止めるかも知れません。」
ぐらいが適当だろうか。