「玉藻」5

 七月後半、待ちに待った夏休みがやってきた。
 母さんは宣言したとおり、三人分だけしか航空券とホテルを予約しなかった。予約を取るときにかなりしつこく「本当にこれでいいのね」と確かめられたけど、ぼくは何度聞かれても同じ返事しかしなかった。そのあとも「まだ間に合うのよ」と言われたけど、ぼくはあくまでも「おじいちゃんちに行く」と答えた。行き先が沖縄に決まったとき、気持ちがまったく揺れなかったと言えば嘘になる。沖縄、と、一人旅。どっちも魅力的だった。でも、沖縄という華やかな観光地のイメージよりも、一人旅という言葉の持つ、ヒリヒリするような冒険のイメージのほうがぼくにはより魅力的に思えた。航空券とホテルの追加予約の期限が切れて、いよいよぼくが一人旅をすることが本決まりになったあとに「あれ、一人旅って言っても、おじいちゃんちに着くまでのたかだか数時間じゃないか」ってビックリしたことは、ぼくひとりだけの秘密だ。まあいい、男が一度決めたことだ。
 夏休みに入ってからの毎日は、部活に行ったり、友達とプールに行ったり遊びに行ったりしているうちにドンドン過ぎていった。
 出発の日。
「じゃあ、わたしたちのぶんもお線香あげてきてね。」
 母さんたちに見送られて、ぼくは数日分の着替えと歯ブラシと本の入ったバッグを肩に、家を出た。自分ひとりで電車に乗るときはせいぜい二つ三つ先までしか行かないから、ちゃんと切符を買えるか内心ヒヤヒヤしてたんだけど、駅の券売機は画面の案内も親切で、あっけないくらい簡単に乗車券と特急券を買うことができた。普通の電車と新幹線を乗り継いで、二時間とすこし。新幹線の中では本を読んでいたから、一人旅の時間は実際よりもずっと短く感じた。
 目的の駅に着いて改札を出ると、おじいちゃんが迎えに来てくれていた。翔太、とぼくの名前を呼びながら、大きく手を振るおじいちゃんに、ぼくは駆け寄った。
「おじいちゃん、久しぶり。しばらくお世話になります。」
 あいさつをしてペコリと頭を下げると、おじいちゃんは、うん、とうなずいてから、
「よく来たね、まあ、のんびりしていきなさい。」
と言って骨ばった手でぼくの肩をポンポンと叩いた。叩かれたところから、温かさが広がっていくような気がした。おじいちゃんからはいつも、一緒にいるだけでこっちまで落ち着くような静けさと、温かさを感じる。ぼくは駅を出てからわずか数分で、おじいちゃんのところに来たことを実感した。一人旅を選んで正解だった。
 おじいちゃんのうちは駅から歩いて十分ほどのところにある。ぼくたちは並んで歩きながら、初めての一人旅について話をしたり、寄り道をたくらんだり、街並みについてあれこれ意見を交わしたりしていた。だいたい半年おきに来ているから街並みに大きな変化はないんだけど、それでも時々きれいなビルが建っていたり、お店が入れ替わっていたりする。
「あそこ、また看板が変わってない?」
「よく覚えてるね。そう、あそこは表通りに面してるし、建物の見た目も悪くないんだけど、なぜか客の入らない『魔の物件』なんだよ。土地のひとは絶対にあそこで商売をしようとはしないね。一年と持たない。」
「ぼくの町にもそういうとこあるよ。」
「うん、どこの町にもそういう物件がある。でもはっきりとした理由はわからない。不思議なものだよ。」
 おじいちゃんが「わからない」というときは、だいたい他の誰に聞いてもわからない。おじいちゃんはすごい物知りなのだ。