「玉藻」4

 すっかり忘れてた。ぼくは程よい温度になったカレーを勢いよく掻っ込んだ。なんだ、知らなかったのか。ホッとしたような、物足りないような気分だった。ひどいことを言ったのが父さんに知られなかったのは良かったけど、母さんにとっては父さんに話すほどの大事じゃなかったんだ。ぼくばっかり焦って落ち込んで、せっかくのカレーまで食べ損ねるところだった。あぶないあぶない。そんなことを考えながら、ぼくはあっという間にカレーを食べ終えた。ごちそうさま。
「で、なんでケンカなんかしたんだ。」
 水を飲もうとして冷蔵庫を開けていたら、父さんが興味津々で尋ねる声が後ろから聞こえてきた。
「ケンカしたなんて言ってないじゃない……まあ、したけど。ビール、もう一本どう。」
 貰うよ、という父さんにビールを渡して、ぼくは冷えた水の入ったペットボトルを取り出す。食器棚から出したコップになみなみと水を注いで、ペットボトルをまた冷蔵庫にしまう。
 テーブルに戻ったぼくは父さんと差し向かいで座って、夕方のいきさつを話し始めた。母さんが、今年の夏はおじいちゃんちに行かないと言い出したこと。ぼくが行くと言い張ったこと。ゴールデンウィーク明けに安原さんがお土産を持ってきてくれたこと。そのせいで母さんは見栄を張ってるんだとぼくが言ったこと……母さんが、ひどく悲しそうな顔をしたこと。気まずくて話せないこともあったけど、ぼくはできるかぎり誠実に、話せるだけ事情を話した。
 父さんはときどきビールを飲みながら、黙って話を聞いてくれた。ぼくが話し終わると、しばらく腕組みをして考えてから、ポツリと言った。
「近所づきあいは、安原さん以外ともあるからな。」

 父さんの考えはこうだ。安原さんはよく旅行に行ったり、いいものを身に付けていたりする。それは単なる趣味で、安原さんはそれを自慢したりはしない。ただし安原さんの周囲はすこし違っていて、安原さんを真似るようにいろいろなことをする。そして、(そこだけは安原さんを真似ずに)そうしないひとたちを馬鹿にするような態度を取ったり、仲間はずれにしようとしたりする。安原さんも内心では困ったことだと感じてはいるらしいけれど、そんなことで遠慮して旅行の回数を減らしたり、旅行に行ったことを隠したりするほどじゃない。
それに、安原さんは旅行に行くたびに律儀にお土産を持ってきてくれる。そのたびにこちらも旅行に行ってお土産を返すなんてことをしてたら身体もお金も持たないけれど、旅行に行く機会があれば当然お土産の心配をすることになる。たまの遠出と言えば決まって里帰りで、お土産に似たような品物ばかり持っていくのも心苦しい。だから母さんは今年の夏、いつもとは違う場所に旅行したいと言い出した。
「とまあ、こんなとこじゃないか。」
 うーん、と唸って今度はぼくが腕組みをする番だ。安原さんがハワイ旅行に行ったことを妬んだわけじゃなくて、そのあと起こることを見越して不機嫌になっていたんだとすれば、ぼくが母さんを責めたのはとんだお門違いだったってことになる。
「でも、だったらどうして母さんはぼくにそう言わなかったの。」
 父さんの返事は早い。
「そりゃ子供の前でご近所さんの悪口みたいなこと言いたかないだろ。オレだって、お前が気にしてる様子じゃなかったらこんなこと言わないよ。」
 ぼくは大きくため息をついた。筋が通ってる。これ以上反論する気にもならない。ぼくはどうやら、両手を縛られた相手とボクシングをしてたらしい。
「面倒なもんだね、近所づきあいって。」
 ぼくはそう言いながら立ち上がって、カレー皿を流しに運ぶ。振り返って、父さんのほうに手を差し出す。父さんは飲みさしのビール缶以外のものを、ホイホイとぼくに渡す。
「その面倒なものを、キッチリこなしてくれるからアイツは頼りになる。」
 父さんがのろけるなんて珍しいな、と思いながら給湯器のスイッチを入れる。酔っ払ったの、とぼくが聞いても、父さんはふふと笑うばかりで答えない。ぬるま湯で大まかに汚れを落としてから、洗剤をつけたスポンジでゴシゴシやる。ひと通り洗って、汚れが残っていないかチェックしながら泡をしっかり流していく。水切りカゴに、食器が密着しないようにうまく並べて、洗い物完了。
「なあ、さっきから思ってたんだが。」
 後ろから父さんの声が聞こえる。なあに。ぼくは先をうながす。
「お前今日、やたらと気が利くな。」
 そうかな、と答えて給湯器のスイッチを消す。
「食器、水に浸けるだけかと思った。」
 まあ、いつもならそこまでなんだけど。ぼくはタオルで手を拭いて、テーブルをチラリと見る。特に汚れてないから、台布巾をかける必要はなさそうだ。
「たまにはね。」
 お腹がいっぱいになったら、またすこし眠くなってきた。歯を磨いて寝ることにしよう。
「珍しいこともあるもんだ。」
 ぼくはニコニコしている父さんを横目に、居間のドアに向かう。おやすみ、と声を掛け合って部屋を出る。パタンと閉じたドアの向こうから、父さんがテレビのスイッチを入れる音が聞こえる。