「玉藻」3

 居間に母さんたちはいなかった。テーブルの端っこに座って、カレーが温まるのを待つ。父さんはカレーが焦げ付かないように時々かき混ぜながら、つまみの支度をしている。冷奴と枝豆を小皿に盛り付けて箸のそばにトンと置くと、冷蔵庫からビールを取り出す。ビールを開けようとした瞬間に、ん、と言ってまたカレーをかき混ぜ、ガスコンロの火をとろ火にする。椅子に座って、プシュッ、とビールを開けて、なぜかぼくのほうに缶を軽く持ち上げてから、初めの一口。ゴッゴッと派手に音を立てながら、父さんの喉仏が上下する。ぼくはただなんとなく父さんの動きを眺めていた。父さんは冷奴をペロリと平らげるとビールを飲んで、ビールの缶を置いたと思うとまたすぐに枝豆を口に運び、空いた皿に殻を入れていく。それからまたビールを飲む。枝豆が半分くらい減ったところでぼくのほうを向いて、
「カレー、そろそろいいんじゃないか。」
と父さんは言った。
 あ、うん、と返事をしてぼくは立ち上がった。キッチンの調理台に用意してあった大皿にご飯を盛って、カレーをかけて、ガスコンロの火を止めて、「父さんの分もよそおうか」と声を掛けて、ちょうどビールを喉に流し込んでいた父さんの返事を待っていた、そのときだ。ぼくの頭に突然、真っ暗な部屋に入ってきた父さんの「めし、食わないのか」という言葉がよみがえった。ぼくは時計を見た。十一時。いつもなら、ぼくはとっくに晩ご飯を食べ終わっている時間だ。どうして父さんは、ぼくが晩ご飯を食べていないことを知っていたのだろう。
「おう、頼むよ。適当によそってくれ。」
 りょーかい、と返事をして父さんのカレーを盛り付ける。ぼくは両手にカレー皿を持ってテーブルに戻った。父さんの前にひとつ、自分のところにひとつ皿を置いて椅子に座る。
「いただきまーす……はひっ。」
 ぼんやりしながら口元に運んだ最初のひとすくいがとんでもない熱さで、ぼくは慌ててスプーンから口を離した。前歯のあたりがジンジンして、目から涙がにじみ出てくる。すぐに再トライする気にもならなくて、いったんスプーンを皿の上に戻した。父さんはぼくが火傷しかけたのにも気付かず、ホッホッと言いながら食べ進んでいる。ぼくはカレーが食べられる熱さになるのを待つことにした。
「ねえ父さん。母さんから、何か聞いたの。」
 ぼくが晩ご飯を食べずにいたことを知っているのは、母さんとカナと公太だけだ。カナと公太はもう寝てるはずだから、父さんにそのことを教えるとすれば母さんしかいない。母さんがぼくを一方的に悪者にして父さんに告げ口してたらイヤだな、と思った。
「まあ、ちょっとはな。」
 父さんはカレーを食べる手を止めて答えた。それからまたビールを一口飲んだ。
「ちょっとって、どのくらい。」
 ぼくが急き込んで言うと、父さんは目を丸くしてぼくを見た。しばらく間があって、クシャクシャッと笑うと、なんだ、ケンカでもしたのか、と聞いてきた。ぼくは父さんが母さんの味方をしてお説教でも始めるんじゃないかと身構えてたから、肩透かしを食ったような気がした。ぼくがポカンとしていると、父さんは話し始めた。
「母さんが言ってたのは、お前がめしを食ってないってことと、自分よりオレが声掛けたほうがいいと思う、っていう二つだけだ。ということで後よろしくって、さっさと寝に行っちゃったよ。まあ、なんかあったんだろうとは思ってたけどな……お前、カレー冷めるぞ。」