「玉藻」2

「あのさあ、母さん。どうして今年に限って他のところに行きたいなんて言い出したの。」
返事はない。母さんはじっとぼくを睨みつけている。
「……別に理由なんてない、かな。違うよ。理由ならある。自分じゃ気付いてないだけさ。こないだ、ゴールデンウィークの後だったよね。向かいの安原さんが『ハワイのお土産です』って、コナコーヒーとマカダミアナッツ持ってきてくれたの。安原さんがいるときは『まあ、いいですね』なんてニコニコしてたのに、帰った途端に機嫌悪くなっちゃってさ。安原さんにはゼンゼン自慢げなところなんてなかったのに、見下されたとでも思ったんでしょ。勝手に対抗意識燃やしちゃってさあ。みっともないったらありゃしない。母さんのつまんない見栄に付き合わされるコッチの身にもなってよ。」
母さんは途中何度か口を開こうとしていたようにも見えたけど、ぼくもそうはさせまいと一気にまくし立てた。言い終わってしばらく経ってから、母さんはポツリと言った。
「そういうんじゃ、ないのよ。」
 その声が、いままでとガラリと調子が変わって、すごく悲しそうだったから、ぼくも内心ちょっと言い過ぎたかなとは思ったんだけど、それまでに勢いがつきすぎていて、自分でも止められなくなっていた。
「ふん、いいよね。『違う』って言えば事実だってなかったことになっちゃうんだから。すごく便利だなあ。ぼくもこれから使わせてもらおうっと。都合の悪いことは全部帳消しだ!」
 ぼくはそこまで言って、返事を待たずに階段を駆け上がった。なんていうか、自分でも言っちゃいけないことを言っているのは自覚していて、それでも言うのを止められなくて、でも自分の言葉で傷ついている母さんたちの顔を見るのは怖くて、たまらず逃げ出したのだ。ぼくは時々こういうことをしでかす。部屋のベッドに突っ伏して、ぐるぐると渦巻くような感情に飲み込まれそうになったり、突然「でもぼくは間違ったことを言ったわけじゃない」と開き直ったり、再び襲ってくる大波にさらわれたりしているうちに、ぼくはいつの間にか眠り込んでいた。どこか遠くから階段を上ってくる足音が聞こえて、その度にビクリと目を覚まして、足音がぼくの部屋のドアの前を通り過ぎるのを身を硬くしてやり過ごし、またしばらくして夢の中に戻っていく。そんなことを何度か繰り返した。晩ご飯の時間になっても、誰も呼びに来なかった。すこしお腹が空いてきたな、とは思ったけど、ぼくも下に降りていく気にはならなかった。


 コンコン、とノックの音がして、「開けるぞ」と声を掛けながら父さんが部屋に入ってきた。
「めし、食わないのか。」
 目は覚めていた。でも、なんだか素直に返事をする気にもならない。父さんは部屋の明かりをパチリとつけて、また「オイ」とぼくを呼んだ。ぼくはその時になってようやく、眠りから覚めて父さんがそこにいることに気付いたふりをした。
「んー、ああ、おかえり。」
 ふあ、とあくびしながら、思い切り伸びをする。
「めし、食わないのか。」
 返事をする前に、お腹がぐうと鳴った。父さんには聞こえなかったみたいだけど、ぼくはそれがおかしくて、すこし気持ちが軽くなった。
「お腹……すいた。」
「カレー、今あっためてる。すぐ食べられるぞ。」
 そう言って、父さんは部屋から出て行った。ぼくもベッドから出て、のろのろと階段を降りた。