「玉藻」1

 夏休みに、おじいちゃんちに行けなくなるかもしれない。父さんが仕事で行けないのは毎年のことだけど、今年は母さんまで「たまには他のところに行きたい」と言い出したのだ。カナはすぐに母さんと一緒になって「高原なんて涼しくて良さそう」とか「海外のビーチで思いっきり日焼けするのもいいよね」とか言い始めるし、公太は母さんべったりだから言いなりに決まってる。ぼくはすっかり頭に来てしまった。毎年あんなに歓迎してくれるおじいちゃんとおばあちゃんの気持ちは、いったいどうなるんだ。がっかりしすぎて寿命が縮まったらどうするんだ。
「ぼくはおじいちゃんちがいい。」
ぼくが反対したら、母さんは一瞬「イミガワカラナイ」という顔をした。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、寂しがるよ、きっと。」
「だいじょうぶよ、ひと夏くらい。年末には帰るんだし。それに私たちが行かなくたって、姉さんたちは行くんだから。」
「でも伯母さんとこにはおじいちゃんの囲碁の相手できるひといないよ。しかもあそこは女ばっかりだし。」
「おじいちゃんは将棋だってできるでしょ。将棋ならみんな駒の動かし方ぐらい知ってるわよ。」
「知ってたって、おじいちゃんが声掛けても知らんぷりじゃないか。ぼくなんか、おじいちゃんに一から囲碁おしえてもらったけど、ぼく以外には誰も見向きもしなかったじゃないか。」
「翔太が相手してたからそれでいいと思ってたんでしょ。翔太がいなければいないなりにうまくやるわよ。」
「おにーちゃん、ジイシキカジヨーだよ。」
カナまで覚えたての言葉を使って母さんの味方をしはじめた。
「うっさいなあ、カナは黙ってろよ。とにかく、ぼくはゼッタイにおじいちゃんちがいい。母さんたちが別のところに行くってんなら、ぼくひとりでも行く。」
これだけ言い張れば母さんだって折れるだろうとぼくは思っていたんだけど、完全な見込み違いだった。
母さんはスイッチが切れたみたいに無表情になった。マズイ。母さんはこれ以上話し合っても無駄だと判断すると、こういう態度を取るんだ。
「あらそう。じゃあ、そうしましょう。今年の夏は、翔太はひとりでおじいちゃんの家に行きなさい。私とカナと公太は、三人で違うところに行くから。」
 母さんは冷たい声で言い放つと、ぼくのことなんか忘れちゃったみたいに、またカナと二人でパンフレットを見始めた。時々聞こえよがしに「ねえ、このホテル素敵じゃない?」とか、「カナ、ダイビング初体験しちゃおっか」なんて言っている。別にうらやましくなんかない。ぼくがそんなことで意志を曲げると思ったら大間違いだ。ぼくだってもう中学生だ。一人旅くらい怖くない。しかも行き先は毎年行ってるおじいちゃんちだ。目をつぶってても行ける。
「あーあ、楽しみ楽しみ。今年は邪魔者がいないから、おじいちゃんに色々連れてってもらえそうだな。」
ぼくがそう言って部屋に戻ろうとすると、母さんが敵意に満ち満ちた声で反撃してきた。
「いやあねー、まだ若いのに保守的なんだから翔太は。」
ホシュテキ、って言葉の意味はよくわからなかったけど、とにかく悪口を言われてるらしいことはわかった。ぼくも負けじと言い返す。
「おじいちゃんおばあちゃんも、薄情な娘を持って気の毒だなあ。ぼくが代わりにいたわってあげなきゃ。」
さすがにこれは効いたみたいで、母さんもグッと声を詰まらせた。でも、この後が怖いんだ。
「あーら、料理も後片付けも手伝わないうえに、家のどこに何があるかもさっぱり知らないひとが、どうやっていたわるのかしらねえ。いいわよねえ、まだ可愛がってもらえるうちは。なーんにもできなくても歓迎してもらえるんだから。」
「なあああんにも」っていうところをコブシを効かせて強調するもんだから、コッチも本格的に腹が立ってきた。そこまで言うなら、ぼくにだって考えがある。ぼくは少しだけ落ち着きを取り戻すために、深呼吸をした。