「パフューム」観たよ

 今年は300枚の中編一本に100枚程度の短編を三本書きます!という年頭の誓いはどこへやら。気づくとさっぱり書いてない。小説どころか、まとまった文章も書いてないんだもんねえ。そりゃ会う人会う人「お前何やってんの?」って訊きますよ。新聞読んで小説読んで映画観てマンガ読んでネット見て……って答えることはできるけど。「感性はただで身に付くもんじゃない」とか「時間を投資してるんだ」なんて強弁することだってできるんだけどね。問われた瞬間にどうしようもなく硬直してしまうのは、僕の中になみなみと罪悪感と焦燥感がプールされてるからなんだろう。


 とゆーことで映画評でも書いてリハビリに励みます。先々週くらいに観た「パフューム」が非常に美しく面白い映画だったので、それで。



●「匂い」というテーマ



 人間に備わった五感を起点に物語を発展させていく手法、というのはそれほど珍しくない。文学の領域では、情景描写や人物描写に紙幅を費やすことはごく当たり前の行為だ(視覚)。プルーストは紅茶に浸したマドレーヌから立ち上る香りに刺激されてあふれ出た思い出に異常な幸福感を覚え、それを書き記した「失われた時を求めて」は匂いが記憶を喚起する効果に「プルースト効果」という名前まで付けさせてしまった(嗅覚)。また、「失われた〜」の中では音楽を鑑賞する場面も頻出し、ピアノソナタを文章に「翻訳」しようとする意欲的な試みもなされている(聴覚)。開高健プルーストの例を引き合いに出した上で「鼻の物語」と呼び、じゃあ僕はと「耳の物語」と銘打って、ドラム缶を叩く音や米兵の歌声に彩られた自伝的物語を著した。開高健と言えば、美食家、健啖家としても知られた作家だ。開高に限らず、美食体験を文字に書き起こした作家は多い(味覚)。その表現の貧しさを非難されることも多いが、現代に溢れるグルメ情報の数々もその一角を形成している。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚はすでにあるが、触覚ならもしかして、と思っていた時期がある。だがすぐに考え直した。谷崎の「春琴抄」「盲目物語」やジッドの「田園交響楽」等、盲人を描いた作品の数々が思い浮かんだからだ。その中には意識的に触覚を言語化した作品もあっただろう。さらに言えば、触覚にもっとも挑戦するジャンルとしての官能小説、という見方だって成立するはずだ。


 だからと言って、「パフューム」がありきたりの映画だなんて言うつもりは無い。何よりもまず、匂いを映像と音声によって観客自身の中に立ち上げようとする執念において、この映画は際立っている。物語の舞台となる十八世紀のパリや主人公の生まれる魚市場に満ち満ちた痰、つば、ゴミ、臓物、死体。悪臭の源が画面に現れる度に執拗に付加される粘着質の効果音。降り続ける雨は、汚れを洗い流すどころか細菌の増殖と腐敗を促す。街に生きる人々は汚れた顔に擦り切れた服を着てみな無表情だ。感覚を麻痺させる以外に、ここで生きていく術はないのだと言わんばかりに。
 主人公グルヌイユはまさにその汚泥の真っ只中に産み落とされる。それも、絶対嗅覚と無臭の身体を持って。自らの空白を埋めるために、彼はひたすらに匂いを求める。幼少年期のグルヌイユにあっては「いい匂い」「悪い匂い」という価値判断すらない。ただ匂いのみによって世界を把握しようとする、飽くことのない欲望だけがある。それが価値観として働き始めるのは、人が好んでその身を包もうとする香り=香水と、彼自身が無性に惹きつけられる香り=果物売りの少女が彼の目の前に現れてからだ。彼の内部で匂いの序列化が始まる時、それは究極の匂いへの探求が始まる時でもある。


 パフューム=香水と題されたこの映画は、吐き気を催すような醜悪な光景で幕を開ける。華麗な文芸物を期待してスクリーンを見つめていた観客の多くは裏切られ、眉をひそめ、思わず鼻をつまみたくなったり、目を逸らしてしまったりしたかもしれない。けれど冒頭のストレスは、究極の匂いへの道行きでこの上ないはけ口を与えられることになる。果物売りの少女の匂いを貪るグルヌイユ自身を皮切りに、彼の調合する奇跡的な香水に恍惚の表情を浮かべる顔、顔、顔。舞台はやがて雨に煙る不潔な都市から好天に恵まれた開放的な郊外へ移り、究極の香水作りは一層加速していく。香水の材料は、一人の娼婦と十二人の美しい処女から抽出する十三本のエッセンス。しかし繰り返される誘拐・殺人に、前半のような感覚に訴えるグロテスクさはない。消費される人の命は、グルヌイユにとって純粋にプロセスでしかないのだ。

 究極の香水は完成しないのかもしれない……それは見つからない聖杯の物語に慣れすぎた現代人にとって、当然の不安かもしれない。だがそれは完成する。そして、想像を遥かに超える絶大な威力を発揮するのである。その威力を最も端的に表現したのは、香りを振り撒いたグルヌイユに向かって叫ばれた、「彼は天使だ!」という声だろう。グルヌイユはエロスなのだ。風に乗って運ばれた香りは、エロスの弓から放たれた矢である。僕は矢に射抜かれて愛欲に溺れる人々の群れを眺めながら、このために前半の悪臭はあったのかと一人納得する思いだった。強烈なストレスと一気の解放。これぞカタルシス、というやつだ。


つづく