「パフューム」観たよ(続き)

●欲望の終わりと死


 チャップリンの「ライムライト」に、こんな有名なセリフがある。


「人生は欲望だ、意味じゃない。」


 必ずしも全面的に賛同するわけではないけれど、単純に否定してしまうことのできない力強さを感じる言葉だ。人がその生において何をなし、社会に何をもたらし、その結果誰が何を享受したか。喜劇役者として世界中の人に笑いと希望を届けたチャップリンが、そんなことはどうでもいい、と言うのだから驚く。大事なのは、その人が何を求め、それを得るために何をなすかなのだ、と。

 こんな言葉を思い出したのも、「パフューム」には様々な欲望と、それらが満たされた瞬間に訪れる死が非常に象徴的に描かれていたからだ。まずは順に挙げてみよう。

1.グルヌイユが生まれてすぐに預けられる、救護院の女主人
  →グルヌイユを革なめしの親方に売り、料金を受け取ってすぐに強盗に首を切られて死亡

2.革なめしの親方
  →グルヌイユを調香師バルディーニに売り、その金で一杯飲んだ帰りに馬車に轢かれて水路に転落(おそらく死亡)

3.調香師バルディーニ
  →グルヌイユが新たな技術を求めて旅立つ直前に書き残した、100の香水のレシピを抱きしめてベッドに横たわった途端、建物が崩落して圧死

4.グルヌイユ
  →究極の香水が完成。パリの貧民街で頭から完成した香水をかぶって「解体」される。


 また、グルヌイユの野望が頓挫しようとしたとき、瀕死状態になったことも忘れてはならない。野望とは少女の香りを保存することだ。彼がバルディーニの下で学んだ香りの抽出方法、蒸留法には限界があった。それを知ったとき、グルヌイユは衰弱し、発狂寸前にまで追い詰められるのだ。しかし香水の町グラースに行けば新たな技術・冷浸法が学べると知ったとき、グルヌイユは再び活力を取り戻して旅立ちの準備を始めるのである。


 「パフューム」は欲望の変容と成長の物語である。生まれて間もないグルヌイユが持っていた「匂い」への純粋な渇望はやがて、より高度な「匂い」に近づくことのできる職場への移動、「匂い」を保存する技術の習得、究極の「匂い」の完成を求める気持ちを増大させていく。その完成がグルヌイユに死をもたらすのは、彼がそれ以上の欲望を持つことができなかったからだ。

 では、グルヌイユは究極の香水を使ってまた新たな何かを求めるべきだったのだろうか。終盤のナレーションが言うように、それを絶対の権力として行使すればよかったのだろうか。

 いや、この問いの立て方は間違っている。なぜなら、グルヌイユが「匂い」以外の欲望を持っていたとすれば、究極の香水が完成することはなかったはずだからだ。それはバルディーニの人物造形に明らかである。バルディーニにとっての「匂い」が手段であったのか目的であったのかはわからない。だが、彼が「匂い」以外にも「金」「女」「名誉」を求めていたことは確かだ。だからこそ彼はパリに店を構え、伝説の香水作りに乗り出すことはしなかった。そして衰え枯れてゆく才能に苦しまねばならなかったのだ。


 ここで浮き彫りになるのは、「選択と集中」および「拡大と分散」のジレンマである。前者は力を、後者は安定をもたらす。こういった観点から国家や企業を論じることは有意義だろうし、多くがすでに論じられてきたことと思う。ただ僕がそこに何かしらの寄与ができるとは思わない。この「パフューム」という映画の文脈に沿って少しだけ僕が言えるとすれば、グルヌイユはおそらく「愛」を求めてはいなかっただろう、ということぐらいだ。


 蛇足ながら、チャップリン以前の経済学者、哲学者であるジョン・スチュワート・ミル(1806-1873)のこんな言葉も付け加えておく。

「満足した豚であるよりも不満足な人間である方が、満足した馬鹿であるよりも不満足なソクラテスである方がよい。」

 不満が欲望を生み、欲望が行動を生む。行動は社会に変化と活力をもたらし、文化文明の発達を押し進める。運動せよ、というのはあらゆる動物のDNAの根底に刻まれた命令だ。だからもう迷うな。「意味という病」に倒れるな。「書を捨てよ、町に出よう」だ。


 と、日々自らに言い聞かせてはいるのですが。