れっつげっとヴォイス

http://blog.tatsuru.com/2008/04/10_1114.php

 日々襟を正し、正座して読む内田先生のブログに「Voiceについて」という記事が掲載されていた。ヴォイスとは、書いた文章を添削する際に立ち上がる隔靴掻痒感であり、自らのヴォイスを見つけた暁には、書く文章の肌理は細かく、密度は濃くなりつつも無限に言葉が湧出してしまうのだとか。えーなにそれチョーほしい!!女房を質に入れても悪魔に魂を売っても(どっちもないけど)ほしー!!えーんほしーよーほしーよージタバタジタバタ、と暴れていたら、なんとさらに詳しい解説が……!


http://blog.tatsuru.com/2008/04/11_1942.php

 「クリシェと割れた言葉」というタイトルだ。クリシェはフランス語で常套句のこと、「割れた」と書かれているのは、センテンス、単語、音韻が細かく分節化された、という意味である。


 クリシェ、という単語を見た瞬間にドキリとした。実を言えば、ついこの間ブックオフで全品半額セールが開かれていたときに、たまたま手にとって購入していたのがフローベールの「紋切り型辞典」だったからだ。わっとあこーいんしでんす!これぞシンクロニシティ。もうこうなったら「運命」モードに突入して、「姿三四郎」の藤田進ばりに「先生!」と叫びながらついていくしかない。(わかりにくい例えですまない(とゆーのは内田先生の口癖です))


 (予備)クリシェ、という単語を見た瞬間にドキリとした。実を言えば、自宅の近所にずばり「Cliché」という名前の美容室があるからだ。店名を額面通りにとってその営業内容を想像すれば、「よくあるヘアスタイルに顧客を誘導することで、カット技術の複雑化を防ぎ従業員のトレーニング時間を軽減。慣れたヘアスタイルならカットにかかる時間も短縮できるし、その分カット台の回転率も上がって利益が上がる」という感じなのだろうか。どうしてそんな名前にしてしまったのだろう。もしかすると単にフランス語の響きがセンスの良いものに感じられたからかもしれない。(経験上、大抵のフランス語学習者は何よりもまずその音の響きの虜になる。)いや、別に店名のセンス云々という話をするつもりではなかったのだ。

 一言で言って、縁を感じたのである。近所の美容室と、内田樹。繋がるはずのないものが、クリシェの一言で繋がってしまった。その時わたしは、もしかするとこの人に付いていってもいいのかもしれない、という気がした。言い訳ならもう用意してある。なあに、結局人間にできることなんて「どう間違えるか」を選ぶことくらいのものだ、とそんな風に嘯けばいいだけの話だ。(予備終わり)


 ヴォイスに新たに加えられた定義は、

・入力と出力が1:100というような異常な比率で作動する言語生成装置

・自分が語りつつあるメカニズムそのものを遡及的に語ることのできる言語

 実例として、町田康の随筆も引用されている。昔「くっすん大黒」を読んだときには「なんかダラダラ書く人だな」くらいの印象しか持たなかったのだけど、こうして懇切丁寧な解説付きで読んでみるとなるほどなるほど、見事なものだ。


 また、「割る」ことに関しては「内破(implosion)」という哲学用語も引き合いに出されている。参考になりそうなので、これも調べてみた。

http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/essay/inscription1.html

1 内的記述

対象の閉域内に迷うことなく身を寄せ、その閉域内に決然と自らを留め置き、そこにひしめく無数の襞、ざらついた界面、綻びのように口を空ける間隙、それらにありのままに触れること――それが「内的記述」である。では、何のためにか?第一に、対象を「内把」するためである。第二に、対象を「内破」するためである。(引用ココまで)


 この部分は特に、内田先生の語る内容と極めて近いもののように思う。implosion、ということはexplosionの反対、内側に破れる、ということだ。自由連想的に対象を次から次へと移していくのではなく、対象を定めてその内部に留まること。「内杷」し、「内破」する。(それにしても哲学者の文章ってかっこいーな。)対象を分子に、原子に、電子陽子中性子にまで分割しその運動を最大化し、核分裂あるいは核融合を引き起こす、というくらいのイメージだろうか……ここまで書いて、無限の言葉を湧出するその力の源が少しだけ見えてきた。


 「クリシェと割れた言葉」には、授業の最後に学生さんたちに出した宿題まで載っている。

「君たちの日常的なごくごくふつうのふるまい。それこそ「パンがなくなったのでパンを買いに行った」という程度の「ふつうのできごと」を割って割ってどこまで割れるか、それを600−800字のエッセイで試みてみなさい。宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します。」


 ここまできたら書くしかない。2ちゃん風に書くと、


 書 く し か な い ! !


という感じだ。(とかやってるけど僕ねらーじゃありません。)


 しかし問題がひとつある。それは内田先生の授業が人気で、聴講者が予定(10から15人)を大幅に超過した結果、人数を絞らなければ実際の添削作業がオーバーボリュームになってしまうということ。まだ教室には70名ほど学生さんが残っている。モチベーションの低い人を追っ払って残った70名だ。ほとんどの人が課題を書いてくるだろう。(課題の枚数も少ないし。)そんな状況で、授業料を支払って講義に参加している学生さんを差し置いて、わざわざブログ読者(しかも著作を正価で購入した事のない不良読者)の投稿を添削してくれることはありえない。(僕の書いた文章が神々しいほどに優れていたら……それでもない、かな。)


 しかもだ。書いてコメント欄に投稿するなりトラックバックするなりしたとしても、そもそも聴講者を絞るために出された課題である、という前提を無視してしまうことになる。それは師に対して礼を欠く行為になりはしまいか?


 ……いや、あの、すでにコメント欄に投稿しちゃったのに、こんなこと書くのも白々しいですよねー。しかもこれもトラックバックするつもりで書いてるし。


 ということで!


 添削どころか読んでもらうことも期待せずに書きます!とゆーか書きました!(泣きながら)

 幸いにして、最近コメント欄が非常に賑やかなので僕の投稿もすっぽり埋もれていることでしょう。これはむしろ好都合。


 次回の授業開始(17日)までに提出できるレベルの文章書くぞー!ヴォイスを手に入れるぞー!えいえいおー!


 とまあそんな感じで、次回からは実際に書いてみた文章(投稿しちゃったやつ)を叩き台にして問題点反省点を浮かび上がらせ、より「割れた」文章を書いていきたいと思います。