ボイスボイスボイス

 ということで、ついうっかり出来心で内田先生のブログに投稿してしまった課題文が
コレ。


 「電車に乗る」


 ある朝通勤するために、と書いても通勤する事そのものには正社員だとか派遣社員、パートやフリーターなんていう雇用形態を限定する要素は一切ないと予め宣言しつつもその宣言する相手はいったいどこにいるのかと自問することもなく、駅のホームで電車を待っていた。重ねて言えば組織に属することが人の生きる唯一の術であるはずもなく、といって属することなく生きられる人間ばかり称揚するつもりもないことを(以下同文)。時間通りに電車が入ってくる、とすると、ついそこに時間厳守を旨とする日本人の国民性というような複雑かつ検証の極めて困難な問題が混入してくる可能性があるので、ここは時刻表に記載された時刻とほどよい距離感を保ちつつ電車がホームに滑り込んできた、というくらいの記述が相応しいのかもしれない。(が、もしかすると相応しくないかもしれない。)


 停まった電車のドアがどこかから空気の吹き出す音を響かせながら開く。降車する人々を待つことが一般的に推奨される秩序であることは否定しないけれど、常態化した習慣を壊すには非常の活力を要することを考慮すれば、ほとんど寝起きに近い私が大人しく並んでいたことは問題ないと看過されることこそあれ非難されることはないだろう。車両の入り口は一度に一人しか通れない事もあれば三人通ることもあって、それは取りも直さず個々人の体表面積とパーソナルスペース感に依存する一過性の現象に過ぎないのではあるけれど(ベビーカーを押して歩く人や、不釣合いなほど巨大な風呂敷包みを背負う老女はこの時間帯にはほとんど電車を利用しないものだから)、偶然私が乗車する際には人々が二列で降車する形になっていて、入り口の両脇に乗車を待って並ぶ計二列のうち一列の先頭に私が立っていたことから来る安堵を裏切るように、反対側から乗車しようとする人々の目前を通過する人々の列は明らかにこちらより早く途切れようとしていた。(796字)



 悲しいかな、この文章はまったく「割れて」いない。最初の二文、「ある朝〜(以下同文)。」の部分に見られるのは格差社会への配慮である。それはただ中立であろうとする努力であって、分節化というテーマから外れている。次の一文「時間通りに〜しれない。)」では配慮の対象が民族的ステレオタイプとその賛成者・反対者に移行しているのみである。


 次の段落でもほとんど同じことが繰り返されている。電車、ドア、開く、といった名詞、動詞にその物質性や運動を分節化し異化するきっかけは潜んでいるのだが、あえなく見過ごされている。その後の「一般的な秩序うんぬん」という部分には、壊乱を旨とするパンク・ロックアナキズムへの眼差しが見えるが、傍観していると言うほかない。「車両の入り口」以下の文章でも生活習慣病患者とその背後に控える飽食文化および(再び)格差社会への「配慮」が見え隠れする。


 総評:あなたが費やした文字数の大半は「配慮」するために使われていて、コメント欄末尾に自身で書き込んでいた「絡め取られている」という文言にその事態は集約されている。気付いたのなら、全文丸ごと放棄して書き直す気概が欲しかった。なお、これは「割る」というテーマに沿わないという意味での評価であって、文章力自体は(もちろん向上の余地は大いにありますが)まずまずのレベルです。


 まず、例に出されていた町田康の随筆を考えるところから始めたほうが良さそうだ。


 文は二重の構造から成っていた。「原稿を依頼された作家の葛藤」つまり地の文と、「その結果書かれた随筆」という随筆内随筆である。地の文で準備された仕掛けが、随筆内随筆で一気に作動するようになっている。具体的には「パンを買いにいく」ことが「パン食を奨励していると受け取られるかもしれない」という明らかな杞憂を、随筆内随筆に真摯に反映させてみせることが滑稽さを生み出す。読者は「いやいや受け取らないでしょ」と思いつつ読み進め、だからこそ最後に「そこまで書くか!」と笑い出してしまう。読者の予期と、随筆の文章にズレが生じるからである。


 「そら、気ぃ遣いまっせ」と題されたこの随筆に込められた狙いは、自主規制、自己検閲のメカニズムをたやすく内面化してしまうメディアや読者、そして表現者たる自分自身を笑い飛ばすことにある。この随筆を笑うことができるのは、ここに描かれているのが一見して明らかな杞憂だからであって、明らかでないほうの杞憂はメディアばかりでなく、実際の生活レベルにまで影を落としている。耳にする機会には事欠かない。


 別に配慮をするなと言うわけじゃない。表現の自由だって、それを振り回せば暴力以外の何物でもないという局面もある。それでも、感じること、思うこと、考えることがあって意見や疑問を持ったときに、ただ「面倒だから」というだけの理由で自分の奥深くにしまいこみ、奇麗ごとばかりで表面を取り繕うのはやめないか?それとも、本当に意見や疑問なんて持ったことがないのか?


 ほら、ちゃんと書いてあるだろ?


「どんな偉い先生でも、いわれなく人を不愉快にするのはいけないことだ」


 大事なのは「いわれなく」ってところであって「人を不愉快にするのはいけない」ってことじゃない。お前の言葉は不愉快だと言われたとき、君ら自身は不愉快にならないのか?不愉快だと言い立てるお前の言葉のほうが不愉快だ、って言い返したっていいだろ?まあ、泥仕合だろうけどさ。しかも時々言い過ぎて殴られるしね。(オイ、まさかあの話を蒸し返すつもりじゃないだろうな?)でも言わせっぱなしよりはずっとマシだよ。自分の手は絶対汚したくないってんなら話は別だけど、生きていけば手は汚れるもんだとオレは思うね。


 ……文面をじーっと睨みつけてるうちに、町田康の声が聞こえてくるような気がした。うん、だいたい納得。学生さんたちの文章をたくさん添削してきた内田先生の気持ちにも、少しは近づけたかもしれない。


 よしっ!じゃあコレ踏まえて次の文章書くかー!