「パフューム」観たよ(続きの続きで終わり)

●「愛と精神」はパリを席巻したけれど


 と、書き出そうとして正確を期し、検索したらいきなりつまずいてしまった。グルヌイユがバルディーニに弟子入りするきっかけになった香水「愛と精神(Love and Psyche)」の名前を、多くの人が「愛と精霊」と書いていたからだ。原作には「アモール エ プシュケ(Amour et Psyche)」と書かれているようなので、訳語としては「愛と魂」「愛と精神」「愛とプシュケ(エロスの妻プシュケの固有名として)」ぐらいが適当だと思うのだけど。(最近観た方で「字幕は『愛と精霊』だったよ!」という方がおられたら教えてください。)これが実は、愛という言葉から直感的にキリスト教を想起した視聴者の多くが父、子、精霊の三位一体を即座に連想しミスリードをミスリードされてたりすると面白いなあ。ともあれ、ラブアンドサイキとしか聞こえなかったのでそのまま話を始めてしまうけれど……。


 「パフューム」における「愛」の描かれ方は一風変わっている。

 この映画は『愛』を笑っているのか?というのが観終わった直後の偽らざる戸惑いで、それゆえにこの映画について考え続けずにはいられなかった。正直なところ、僕はいままで「愛」という概念そのものについて、あまり真剣に考えたことがなかったような気すらする。

 パリで大流行していた香水「愛と精神」。それに似たものを作ってくれと依頼され、バルディーニはまずその成分を分析することから始める。ハンカチに一滴たらしてはそれを翻し、漂う香りを嗅ぎ分けようとするがなかなか上手くいかない。そこにやってきたグルヌイユが部屋に満ちた「愛と精神」の香りに気づき、こう言う。

「愛と精神ですか?ひどい香水ですね!」

 この言葉が密かな疑義提出の宣言として響き始めるのは、物語が終わってからだ。


 処刑台の上から振り撒かれた究極の香りに当てられて、人々は愛欲の渦に巻き込まれていった。グルヌイユが悠々とその場を立ち去ってのち、一時の夢から醒めた人々の気持ちをナレーションの声はこんな風に代弁する。

「人々は二日酔いのような吐き気に襲われ、そそくさとその場を立ち去った。その後、その事を思い出そうとするもの、話題にするものは一人としていなかった。」


 処刑を逃れたグルヌイユは、自分の生まれたパリの貧民街にたどり着く。使い道のない究極の香水を、頭からかぶる。神々しいほどの光輝をまとったグルヌイユを求めて、人々が殺到する。そして殺到した人々はグルヌイユの服をむしり、肉を貪る。「聖遺物」の誕生……そこにまたナレーションがかかる。

「人々は生まれて初めて、純粋な愛によって行動した。」

 ここでの「愛」は、はっきりと「奪うこと」の代名詞である。


 僕の戸惑いは、これらの三場面が根拠になっている。けれど、二時間を越える大作のわずか三場面じゃないか、という見方もできるだろうし、特に重要な三つの場面だ、という言い方もできるだろう。それこそ個人的感受性の枠内で語られるべき事柄に過ぎないのかもしれない。それでもやはり、愛への懐疑を強く感じさせるのは、「愛と精神」という香水の名前が、ある時代を思い出させるからだ。

 ヒッピームーブメントが隆盛を極めたのは1970年前後だろう。ラブ&ピース、フリーセックス、ドラッグ、東洋哲学への接近……。愛、平和、快楽、精神。現代でも決して否定されることのない価値である。だが、ヒッピームーブメントは長続きしなかった。むしろ時代の徒花として、揶揄される対象であり続けているのではないだろうか。そうして、フリーセックスに明け暮れた人々の中には「その事を思い出そうとするもの、話題にするものは一人として」いなくなってしまったのではないだろうか。ああ、こんなことを書いているうちに、「パフューム」が嗅覚の物語ではなく、吸引の物語であるような気がしてきた。


 だが、まだ結論を出すことはできない。「パフューム」に描かれた愛のほとんどは「エロス」であり、最後にグルヌイユがその身を供することで贖罪と「アガペー」を体現しているという解釈可能性は、いまだ残されているからだ。どちらかの解釈が唯一可能であるという言い方は、おそらく不可能である。ただ「愛」もまた一つの、無謬ではないイデオロギーであることを認識できたのは、僕にとって収穫だった。

 「愛」という言葉はとても甘美だ。では、人は「愛」の美名の下でいったい何をしているだろう?奪っているのか、与えているのか。得をしているのか、損をしているのか。そんなことに悩むくらいなら、愛など捨てて秩序と制度に帰属してしまうほうがよほどストレスは減るような気もする。


終わり