ヴォイス、どこにいる?

http://blog.tatsuru.com/2008/04/17_2149.php

 内田先生がクリエイティブ・ライティングの第二回講義もアップしてくれた。17日(昨日)が二回目なのはわかっていたし、それに間に合うように二つ目の文章も書いた。だから、この授業に関して引き続き記事を書いてもらえるなら、昨日か今朝だ、と思っていた。少し緊張しながらRSSに登録してある「内田樹の研究室」のリンクをクリックした。


「ヴォイスを割る」、というタイトルが出た。


 来た、と思った。


 読んだ。


 死んだ。


 やっぱり根本的な部分で間違えていた。タイトルを見て躍り上がらんばかりだった気持ちは、どこかに消え去っていた。割るべきだったのは空間でも時間でもなかった。「わたし」の、「次元」だった。プロセスの細分化じゃダメだ。僕の文章を読んで勘違いした神戸女学院大学の学生さんがいたらどうしよう?いるかわからないけど、謝っておこう。すいません。あなたが誤解を指摘された事実に関して、責任の大半は僕にあります。気落ちしないでください。


 でも、まだ書きます。ミスリードされたくない方は、おそらくお読みにならないほうがいいでしょう。


 なんでそんな害悪を撒き散らすんだ、って?


 下心があるからです。


 ……さて。


 誤解が強固な観念連合を起こして、自らが誤解であることを頑固に否認している。こういう状態になってしまうと、一つ一つ解きほぐしてどこで間違えたのかを特定する、というわけにもなかなかいかない。


 もう一度最初に戻ろう。急がば回れ。急がばがばがば(昔『所さんの金言』ていう本にあったな)。でも、どこが最初だったんだろう。Voiceについて、内田先生が書いた。僕はそれが欲しいと思った。小説を書くために、欠かせないものだと感じたから。文章に、力と愉悦を与えるもの……。


 定義を改めて抽出してみる。


・自分の発する言葉と自分自身の「齟齬」を感知する力

・「言いたいこと」というのは、言葉に先行して存在するわけではない。それは書かれた言葉が「おのれの意を尽くしていない」という隔靴掻痒感の事後的効果として立ち上がるのである。
「ヴォイス」というのはいわばこの「隔靴掻痒感」のことである。

・それまで書いてきたものとは別の水準、別の肌理が立ち現れる予感

・わずかなきっかけで言葉が無限に湧出する装置

・入力と出力が1:100というような異常な比率で作動する言語生成装置

・自分が語りつつあるメカニズムそのものを遡及的に語ることのできる言語

・言語は内側に割れること(これをimplosion「内破」という哲学用語に言い換えてもよい)によって、そこから無限の愉悦と力を生み出す


 これらが、Voiceに関連して紡がれた言葉たちである。Voiceそのものについて書かれた言葉もあれば、Voiceの事後的効果として書かれた言葉もある。

 整理すると、

1.まず書く。(この時「言いたいこと」が確定しているわけではない。ただし、誰か別の人間が書いた言葉に対する違和感、隔靴掻痒感が書記を起動している場合には例外もありうる。)

2.添削する。(ここでVoiceは、自ら書き付けた言葉に対する隔靴掻痒感として作用する。)

3.完成する。(「言いたいこと」に最も近づいた状態。内破して肌理が細かく、自ら語るメカニズムそのものに対して遡及的である。)

4.読者に届く。(Voiceが響く。愉悦を感じる。)

ということになるだろうか。


 おおお、整理するって偉大だ。完全に見失いかけたVoiceが、また少し違う形で見えてきた気がしてきた!(また勘違いしてるだけかもしれないけど。)

 ちょっとエントリが長くなりすぎたので、次のエントリに続きます。