逃れゆくヴォイス

 諸悪の根源、という言い方はいかにも大げさだけれど、ケチの付き始めはやはり町田康の随筆の解釈にあったように思う。


 「自主規制、自己検閲のメカニズムをたやすく内面化してしまうメディアや読者、そして表現者たる自分自身を笑い飛ばす」という狙いそのものを読み違えていたとは、今でも思っていない。しかしこれまでVoiceに関して僕自身が書いてきた文章、特に町田康に触れたところで、我ながら「決定的に違う」と感じる部分がある。


「大事なのは『いわれなく』って部分であって」


 ここだ。そこは大事じゃない。というよりも、「この文章に大事なことは書かれていない」し、上述の狙いに関しても、「言外に表現されている」。にもかかわらず僕がこういう風に書いてしまったのは、読み取った狙いに文言の解釈を引き寄せすぎた結果だし、それでは「割れた言葉」の見本としてこの随筆を提示した内田先生の意図から外れてしまう。


 町田康の随筆を孫引きして、詳しい説明を試みたい。


「だから自分は随筆を書き進めるにあたって、没にならないように細心の注意を払わなければならないが、どういうところを気をつければよいかというと、面白くないから没ということはほとんどない。つまり没といわれて、きっと面白くなかったからだ、と気に病む必要はまったくないということである。またその原稿の内容が不正確であったり、錯誤・過誤にみちみちているから没ということもまずない。その場合は誤りを指摘されるだけである。
 では没の理由はなにか、というとすなわち、その原稿が人をして厭な気持ちにさせる、不快な気持ちにさせる可能性がある、ということが没の理由の9割5分3厘をしめる。すなわち、その原稿の掲載された誌面を見て怒る人が出てくるかも知れない。これが一番困るのである。なぜなら、どんな偉い先生でも、いわれなく人を不愉快にするのはいけないことだからである。
 だから順に考えると随筆を書く場合、没にされないように書く必要があり、そのためには他が不快にならないように書く必要があるということであり、これが基本の基本、初歩の初歩、イロハのイ、鉄則中の鉄則なのである。 
 そういうことを踏まえて、さあ随筆を書こう。」(「そら、気ぃ遣いまっせ」、『テースト・オブ・苦虫2』、中央公論新社、2006年)


 「面白くないから没ということはほとんどない。」という力強い宣言に対して、大抵の読者は「え?そうなの?」という軽い驚きを覚えるはずである(へーそうなんだ、とすぐに納得してしまう僕みたいな人は別)。その驚きはすぐに、「書き付けられた言葉」に対する「疑念」を喚起する。この装置は文中のいたるところに仕掛けられていて、「原稿の内容が不正確であったり、錯誤・過誤にみちみちているから没ということもまずない」というのも同様だ。極め付けは、「没の理由の9割5分3厘をしめる」という部分だろう。統計なんて取りようもない「没の理由」に、取ってつけたような細かい数字を書き添える。「嘘くさい」文章を書くための常套手段である。


 文章全体をひっくりかえしてみると、すべてが仮初めの表現であることはより明白になる。つまり、

・面白くないから没ということはほとんどない
・内容が不正確であったり、錯誤・過誤にみちみちているから没ということもまずない
・不快な気持ちにさせる可能性がある、ということが没の理由の9割5分3厘をしめる

 といった記述が、すべて町田康事実認識とそれに対する本心から出たものと仮定してみるのである。そこから導き出されるのは、

・面白くない原稿でも掲載される
・論旨の前提に間違いがあっても、そこだけ直せば原稿は通る(文章の辻褄はあっていなくてもいい)
・誰かが不愉快になる可能性の一切ない表現が可能である(どれそれは是か非か、という意見ですら)

 という結論だろう。だがこの結論そのものが、随筆を書くコツであるところの「他人が不快にならないように書く」という「基本の基本、初歩の初歩、イロハのイ、鉄則中の鉄則」に完全に抵触しているのだ。


 もし事実なら、そんなことを言われて不愉快でない出版関係者がいるわけがないからである。何しろ有り体に言って、「原稿の良し悪しを判断できず、読解能力に問題があり、保身に汲々としている」と指摘されていることになる。(あれ、読解能力がないと……どうなるんだ?)結局、この原稿が掲載されていること自体が、町田康がそこに「嘘」を書いたという事実の揺るぎない証左になっているのだ。


 では、それらの「嘘」はなんのために散りばめられたのか。


 それらの言葉が「嘘」であることを、気付かせるためにである。


 「嘘」に隠された「真実」を(無意識のうちにでも)探すように仕向けるためである。


 読者の内面にはいつしか、「書き付けられた言葉」とパラレルな、「筆者の言わんとするところ」を記述するための場が形成される。そこに「倍音」が、「自分が今読みたいと思っている当の言葉」が、読者自身の手で書き込まれていくのかもしれない。


 最後に町田康の手法をVoiceという観点からおさらいしておこう。


・自分の発する言葉と自分自身の「齟齬」を感知する力
・自分が語りつつあるメカニズムそのものを遡及的に語ることのできる言語
・言語は内側に割れること(これをimplosion「内破」という哲学用語に言い換えてもよい)によって、そこから無限の愉悦と力を生み出す
・「言いたいこと」というのは、言葉に先行して存在するわけではない。それは書かれた言葉が「おのれの意を尽くしていない」という隔靴掻痒感の事後的効果として立ち上がるのである。


 町田康は「嘘」を書き、それを添削して消し去ることこそしなかったものの、それを残し、殊更に積み重ねていくことでその虚偽を暴いて見せた。齟齬を感知した点、かつ語りつつあるメカニズムそのものに遡及的である点は疑いようがないだろう。そしてその過程を経ることで言葉は「割れた」。「書き付けられた言葉」と「読者内で生成される言葉」へと。言葉はその表面よりも裏側で饒舌となり、読者に密かに語りかけ愉悦をもたらした。


 これがつまりVoiceであり、町田康が稀有な作家であることの証である。


 ……というところで、話を終わりにできないのが厄介なところだ。


 僕はまだ引っかかりを感じている。今回の「嘘」は「政治的に正しい言葉遣いや主張」というくらいのものだった。うまいこと書いてる、とは思う。言質を取られず尻尾を掴まれずに、自己規制自己検閲にとらわれがちな最近の風潮を笑い飛ばすことに成功している、とは思うのだ。けれど、この随筆の中で、町田康のスタンスがぶれているようには決して見えない。


 あーもう、ややこしいな。


 この随筆は、最初からオチに向かって書かれているように見えるのだ。「んなもん、どってことねーよ」という結論なり意見なりがあって、事態を戯画化するために自分自身が自己検閲の罠に陥っている演技をし、実際に随筆まで書いてみせる。けれどそれで、「隔靴掻痒感」にドライヴされて「本当に言いたいこと」を浮かび上がらせたことになるのだろうか。「言いたいこと」が、どうも言葉に先行している印象を拭い去れない。


 ……あまり杓子定規に定義をあてはめすぎているのだろうか。単なる揚げ足取りか……?


 いや、うーん、ちょっと待て。なんとゆーか僕は、町田康が書き終わった地点から、僕が読み終わって解釈して結論付けたその場所からしか語っていないような気がする。もう少し、まだ僕は何かを誤解しているのだ、きっと。


 なんだろう、僕が取り違えているのは……。