震えるヴォイス

 書くたびに前回書いたことを否定していたら、そのうち誰も読んでくれなくなっちゃうんじゃなかろうか。でもまあ、せっかくここまで書いてきたんだし、書かないわけにもいかない(ような気がする)ので、こそこそと書き進めていこうと思います。読む前に、眉にぺたぺたと唾を塗りつけておきましょーね。


 それでは。


 取り違えていたものの正体は、おぼろげながら掴めた。やっぱり町田康だ。町田康の随筆に対する理解も甘ければ、町田康自身に対しての先入観もあった。


 前回、町田康は「嘘」を書いた、ときっぱりはっきり断言したけれど、今ではそうは思わない。随筆の内容がすべて本音だと仮定すると論理的な破綻が起こる、「けれど」、すべて「嘘」と断ずるのも早計だ。


・面白くないから没ということはほとんどない

・内容が不正確であったり、錯誤・過誤にみちみちているから没ということもまずない

・不快な気持ちにさせる可能性がある、ということが没の理由の9割5分3厘をしめる


 これらを「嘘」だと思いたい、言いたい気持ちは残っている。けれどこの気持ちはおそらく、自分が今目指している、これから向かおうとしている(入れるかわからないけど)業界に対しての願望が、心理的抵抗として働いたことに由来している。


 活字メディアに携わる多くの人間は、(他業界のほとんどのビジネスマンと同じように)時間に追われている。自分自身が執筆しても、十分に内容を練る時間が持てず不本意な原稿に終わるケースはどうしても生まれるはずだ。同様に、校正段階で発覚した致命的な間違いを正すための、全面的な改稿が許されないケースも。著名人に原稿を依頼しても状況に大差はない。ただそこには、依頼した自分自身の責任も付いて回る。


 内田先生のブログには、幾度も編集者とやりあったエピソードが出てくる。編集者が原稿の修正を依頼する口実の大半は、(少なくともブログ上で公開されている限りは)政治的な正しさに属するものだ。内田先生だって、それが署名原稿の書き手として責任を放棄しない範疇では、修正を受け入れていると思う。何しろ相手はほとんどが会社員だろうし、逆らいがたい社の方針というものもある。情報の拠点として、狙われなければならない宿命もある。しかし受け入れる側には、事情を鑑みてもなお消えぬ葛藤がある。物分りのいい人間であり続けることなどできはしない。いらだちも、忸怩たる思いもあるはずだ。それが時として、「表現の自由を二束三文で売り飛ばす」ような、しかもそれにまったく「痛み」を感じていないような関係者への激発となって現れる。


 内田先生のブログに日参するようになって大分経つ。過去ログにだって一通り目を通した。僕は何度もそんなエピソードを読んできたはずだ。それでも僕は、当たり障りのない範囲で知的興奮を呼び起こすような言葉ばかり、耳当たりのいい言葉ばかり、自分の読みたい言葉ばかりを選択的に読んでいるらしい。まったくもって己の不明を恥じる他ない。


 随筆そのものに対する理解の甘さ、という点に関してはこのくらいでいいだろう。次は町田康に対しての先入観を告白しなければいけない。


 町田康はかつて町田町蔵という名のロックミュージシャンだった。今も音楽活動は続けているのかもしれないが、あまり詳しいことは知らない。俳優をやったりもしていたらしいから、多方面で活躍していたのだろう。


「ああ、元ロッカーのマルチタレントね。小説も書くんだ。」そういう気分で読んだ「屈辱ポンチ」が、積極的な評価の対象にならなかったのもむべなるかな、である。


 単なる偏見であることを高らかに宣言しつつ言わせてもらえば、僕はロックにありがちな、妙に斜に構えた説教臭い歌詞が大嫌いだ。時々心を動かされそうになるけど、やっぱりスタンスが好きになれない。お前らガキどもは知らねえだろうから教えてやる、ってなとこも、ぶっこわせと叫ぶその対象が決して自らに及ばないところも。(いやいや、それが及んだから○○が生まれたんだよ!とかいうのはナシでお願いします。)当然マルチタレントという言葉も「小器用」くらいの意味でしか使っていない。


 そして、そういう作家像を知らず知らず想定しながら、僕は町田康の随筆を読んでいた。スタンスがぶれているようには感じられなかった。十分な売れっ子として、逆転した出版社との権力関係を楽しむように、書いているのだろうと高を括っていたのだ。


 けれどおそらく、書き手としての町田康だって、内田先生と同じように、譲るべきは譲り、守るべきは守りながら書いているのだろう。そう思うようになった。ま、最初っから素直に読んでいた人にはバカみたいな話でしたね(^^;


 今回の結論。なんだかんだと書いてきたけれど、僕はこれまでの解釈がまったくの間違いだったとは思っていない。自分が正解にたどり着いたとも思わない。ただ、しばらく根を詰めて考えてみたら、すべて本音だとも、嘘だとも思わなくなった。それは至極平凡な、ありきたりの解釈なのかもしれない。けれど、本音に見えたり、嘘に思えたりした、そのこと自体に大事な何かが隠れているような気がしている。


 町田康の随筆という土台を踏み固めて、ようやくVoiceの話に入れそうです。どうも僕は内田先生の言う「倍音」というのがさっぱり聞こえないみたいなんだけど、(しかもそれは「霊的成熟」が果たされていないからみたいなんだけど)何とか考えの取っ掛かりは見つかったかな。合言葉はボビー・ヴィー!


 ということでまた次回に続くのでありました。