歌う/詠うヴォイス

 「倍音」を生み出す文章術としてのVoiceについて語ろうとしているのだけれど、その拠って来るところの音楽的な「倍音」が聞こえない。もしやこれは致命的な欠陥なのでは……戦々恐々としながらも手掛かりを求めて内田先生の関連文章を漁り、その指し示す辺りをうろついていたらこの曲に出会った。


http://jp.youtube.com/watch?v=1qpO69RfIFE&feature=related


 ボビー・ヴィー。僕が生まれるよりも前にピークを迎え、そして終えた昔の歌手だ。この物凄いヴィブラート(一番最初のMy tears are fallin'のfallin'のところなんて、聴いているこちらがぐるりとひっくりかえってしまいそうになる)と一緒になってぶるぶると震えているうちに、差し当たって「倍音」の代わりにヴィブラートでいいような気がしてきた。と言ってもこれほどの域に達したヴィブラートには滅多にお目に掛からないから、これはヴィブラート一般に当てはまる話ではないのかもしれない。


 ヴィブラートは激しく喉を振動させる歌唱法だ。出てきた声は、その最高音と最低音の間を高速で行き来し、音色のグラデーションを隈なく聴くものに届ける。内田先生の「倍音エクリチュール」によれば、倍音は「『同一音源は一つしか音を出さない』ということをルールに聴覚情報を編制する」、脳にとっての「ルール違反」であり、その事態に困惑した脳に「ここではない他の場所」から到達したものとする「判断ミス」を起こさせるのだという。この「二つ以上の音を同時に出す」メカニズムとして、ヴィブラートは完全に同時とは言えないものの、かなり有力な候補だと考えられるのである。


 僕はヴィブラートに決して「天上的な場所」を想起させられはしない。けれどもそれが「喉の震え」で「高度な歌唱技術」で、「一人ハーモニー」を織り成す「ひどく魅力的な歌声」であることには諸手を挙げて賛成する。だからこそ「霊的成熟」と「天使の声」を一旦措いてでも、追求する価値を強く感じたのだ。


 さて、翻って文章術としてのVoiceの話である。


 町田康の随筆を読み込んでいく過程で、僕の解釈は「書き付けられた言葉」から離れ、「ここには嘘が散りばめられている」という解釈と「ここには真情が込められている」という解釈の間を揺れ動いた。これを「倍音エクリチュール」の文脈に当てはめると、基音と倍音の関係に極めて近いものとなる。そしてヴィブラートになぞらえるなら、最高音と最低音の関係となる。


 つまり「書き付けられた言葉」と「筆者の言わんとするところ」でまず一つ「割れ」、さらに「筆者の言わんとするところ」が解釈の振幅として「割れた」のである。最終的に解釈はすべて「嘘」でもすべて「本音」でもないグラデーション地帯に落ち着き、「政治的に正しい言葉遣いや主張」というテーマはむしろ後景に引き下がっていった。


 ここで思い起こされるのが、エントリ「Voiceについて」で取り上げられていたサラ・ベルナールのエピソードと、その後の「ヴォイスはコンテンツとはほとんど関係がない」という内田先生の言葉だ。「政治的に正しい言葉遣いや主張」がテーマとして取り上げられ、随筆そのものの狙いを書き出せば確かに「テーマそのものを笑い飛ばす」という形にはなる。けれど読者に愉悦をもたらしたのは、賛成者の耳に心地よく反対者の耳に刺さるテーマ性やメッセージ性だけではない。一人の読者の中で割れた言葉と解釈が、そして解釈同士が響き合い、さらにそれらすべてが読者自身と共鳴したからである。


 まとめよう。


 町田康を一人の歌い手とし、読者を聴き手とする。

 町田康が「そら、気ぃ遣いまっせ」という歌を歌う。

 聴き手はその歌詞を言葉として受け取りつつも、歌い上げる声の響きに耳を傾ける。

 声はヴィブラートによっていくつもの音に分かれる。

 聴き手は同時に出ている音を、音階ごとのまとまりとして捉える。

 複数のまとまりが一人の歌い手から発していることを合理的に処理できない場合、それらは「倍音」となる。

 合理的に処理された場合、それらは「ハーモニー」となる。

 歌詞は声によって「倍音」あるいは「ハーモニー」を付加されるとき、歌としての力を全的に発揮する。


 文章術としてのVoiceとは、文章を書くことを歌を歌うことに譬えたときの声のことである。歌手が歌うとき、役者が台詞を口に出すとき、その歌を、台詞を、その歌手だけの、役者だけのものに変質させる、その人特有の声音のことである。文章から書き手のVoiceが響くとき、読み手には重層的な音(解釈)が聴こえる。


 Voiceを響かせるためには、書き手自身が震えていなければならない。そうでなければ読み手を共振させることはできない。震えるためには、「書くわたし」と「添削するわたし」を混在させる方法がある。そしてきっと、大勢の「キャラクター」が輻輳するわたし、という手法もある。どちらの根底にも、激烈な迷いや、混沌がある。


 現代の文学には音がない。それはグーテンベルクによって活版印刷が発明されて以来のことだと言うひともいる。もしかして内田先生の唱えるVoiceという概念が、韻文だけでなく散文にも音を取り戻せという意味合いの号令であるならば、僕はその大胆さに驚嘆しながらも、引きずられていってしまいそうになる。