現場編 3

三日目 埼玉県某市 倉庫

作業内容:ふとんの棚出し


 もしかして、ずっと同じ会社の倉庫で働くことになるのかな、と思っていたら、三度目にして別の市にある現場を紹介された。名前しか知らない駅から、バスに乗って向かう現場だ。昔四年くらい住み、また今住んでいる埼玉だけど、地理はまったくわからない。特に方向音痴のつもりはなくても、どこか空間把握能力に欠陥があるのかもしれない。


 駅の改札前で、今日タッグを組む相手と合流する。


 ずいぶん若い人だ。これから汗だくになって働く割に、なかなかオシャレな格好をしている。聞くと、学生さんなのだと言う。学校が始まると時間がなくなってしまうので、夏休みの間にバイトしとこうと思って。なるほど。


「何学部ですか?」


「理学部です。」


「理学、理学……物理系とか、化学系ですよね?」


「はい、化学、バケガクのほうです。」


 おお、憧れの理系の人ではないか。これは仕事しながらのお喋りにも気合が入る。


「あのう、も、もしかして……平成生まれですか?」


「はい。平成元年生まれの19歳です。」


 ぬぐおおおお……!若い!コーフンのあまり「出たあー!」とか「一回り近く年齢が違うんだ!」なんて叫びつつ、奇態を曝してしまう。僕自身、精神的には未熟なままでも、さすがにやや年を取ってきた自覚はある。「若さ」という可能性に、無条件の愛おしさを感じるようになってきた。この若い人に、僕が在学中に知っておきたかったことを伝えたい。僕と同じ悔いを残さないで欲しい。そんな気持ちがムクムクと沸き起こる。


 駅前のバス停でバスを待つ間、バスに乗り込んで目的地に到着するまでの間、停留所から現場に到着するまでの間、ひたすら話をし続ける。だいたいが内田先生の受け売りだ。


「化学系……っていうと、やっぱり大学卒業後には製薬会社の開発部門なんかを目指すんですか?」


「そうですね、そういうところも選択肢に含まれると思います。でも、ホントに色々ありますよ。食品系とか、検査系とか……あと、あの、サランラップとかクレラップなんていうのも化学系の製品開発の仕事になりますね。」


「なるほど!……あ、でもまだ大学に入ったばかりなのに、大学を出た後の話ばかりしても仕方ないですね。スイマセン、せっかちで。今はとにかく勉強しなきゃいけないですもんね……大学三年から就職活動なんて始めるな!っていう人もいるんですよ。授業もロクロク受けられなくなるほど忙しくなるし、卒論とか卒業研究も疎かになるから、とにかく勉強の邪魔になる、って。就職のことなんて大学を出てから十分だから、大学では勉強に集中して欲しい、勉強もしないで大学卒業資格だけを振り回さないで欲しい、とかとか。それは結局、大学や学問の名を汚すことにしかならないんだから、なんてね。」


「へえー……、メズラシイですね、そういう人。」


「ま、そんな事を言ってる僕自身は、学校の面汚しみたいな生き方しかしてないんですけどね。」


 自虐ネタで笑いを取ろうとしたのだけど、イマイチ不発に終わる。


「そ、そうですか……勉強は、今の状態で結構手一杯なんですよね。教職課程も取ってて、週6で学校に通ってるもので。」


「うわっ、そうなんだ!じゃあホントに大変だ〜……あの、大学に入るときに、単位の説明とか受けましたか?90分の授業を受ける場合、本来は予習復習にもそれぞれ同じだけの勉強時間を割かなくてはいけない、とか……。」


「あ、そういえば言われましたね。友達と『ムリじゃね?』なんて言い合って、笑ってましたけど。実際ソレができるヒトって、いるんですかね。その条件を満たそうとすれば、勉強しかできなくなっちゃうんですよね。やっぱり、今のうちにイロイロやっておきたいです。バイトも、恋愛も、友達との遊びも。」


「そりゃそうですよね〜。でも、一応話は聞いたことがあるんだって分かって、ホッとしました。僕は大学にいるとき、そういう事をまったく知らなかったんです。お蔭で30になった今頃になっても、大学卒業程度の学力がついているかどうか自信がありません。多分、ついていないんだと思います。そのぐらい僕はバカです。いつも先生に叱られています。遅れを取り戻そうと思って、本やネットで勉強し続けてはいるんですけどね。ホントに最近です。心の底から、勉強が面白いと思うようになったのって。大学時代は、もったいないことをしました、麻雀ばっかり打って。」


「麻雀ですか……あ、バス、来ましたね。」


 僕たちはバスに乗り込む。既にこの時点で、Nさんが気持ちのいい人だという事を確信する。理由は単純だ。僕が自虐的な発言をするたびに、Nさんは「そんな事ありませんよ」という微弱なシグナルを送ってくれるからだ。もちろん、僕たちはお互いをまだ全くと言っていいくらい知らない。けれどまず敬意を交換し合うことで、少なくとも話をしやすい雰囲気を作ることができる。余計な警戒心や、言い訳を準備せずに、話に入れる。Nさんは十代にして立派な学び手だ。僕がずっと苦手だったことを、彼は意識せずに実行できている。尊敬できる若い人を前に、僕はますます饒舌になる。


「教職課程を選択されてるってことは、先生になるかもしれないんですね。実は、僕も最近、塾講師の面接を受けたばかりなんです。アルバイトなんですけど、一応一次面接通過の連絡がこの間あって……でも、実際に教壇に立つことを考えると、ついつい心配になっちゃうんですよね。僕みたいな人間が人に教えていいんだろうか、悪影響を与えないだろうか、って。」


「……思いますね、それは。」


「でもまあ、色んな先生がいっぱいいる中に、僕みたいな講師がいてもいいのかもしれない、ってとこで何とか望みを繋いでます……あの、今でも個性を伸ばす教育、とかってやってるんですか、高校までの教育で?」


「え?……ええ。」


「だとすれば好都合です。教育産業が僕を受け容れることが、建前としての『個性を伸ばす教育』の証左になりますからね。隗より始めよ、ってとこかな。」


 含み笑いする僕に、彼はやや開けた口をどう動かすべきか迷ってみせる。


「僕が学校にいた頃は、サラリーマンになりたくない人が大半だったんじゃないかと思いますよ。公務員なんてもってのほか!って感じで。僕、小説書いたりするんですけど、『作家になりたい』って口にすると、大半の人が羨ましそうにするんです。夢があっていいなあ、って。僕にはそういう夢がゼンゼン見つけられないんだよ、って少し暗い顔をして。実際そう言われたりもしました。でもまあ、その頃から自分の小説への執着はビョーキみたいなもんだと思ってましたから、あんまり嬉しくもなかったんですけどね。」


 作家、という単語が出たときに彼の顔は明るくなり、ビョーキ、という単語が出たときに暗くなる。


「今の若い人って、安定志向が強いって聞いたりしますけど、どうですか?おっきめの会社に入ることとか、結婚して家庭を築くこととか、考えてゼンゼン嫌な気持ちになったりしない?」


「ええ?……いや、むしろ目指してますよ。できるだけ大きな会社に入りたいし、いいヒトがいれば早目に結婚したいと思ってます。」


 おおー!と歓声を上げる僕を見て、さすがのNさんも怪訝な表情を浮かべる。マズイ、これでは好適な観察対象を見つけて喜んでいる研究者みたいじゃないか。話を戻さなければ。時よ止まれ、お前は美しい!


「塾で教えるようになったら、復習がてら何でも教えたいと思ってるんです。でも、中学くらいから、数学は一から勉強しなおさなきゃいけなくなりそうで……。」


「そんなに苦手だったんですか、数学?」


「ハイ、もうずっとお手上げでした。典型的な私立文系なんです、ボク。あんまりわからなくて遠くにあるものだから、憧ればかり膨らんじゃって。」


 彼がニッコリ笑う。


「一応高校まで生物はやってたんですけど、数学は受験が終わった瞬間に抜けちゃうし、物理は基本すら習ってないんですよね、多分。化学は……元素記号を暗記した覚えはあるけど、中学レベルの知識で止まってる気がします。だから、ずーっと健康ブームって続いてるじゃないですか、そういう情報に触れて、例えばコラーゲンは経口摂取しても消化の過程でペプチドとアミノ酸まで分解されてしまうから、美肌効果はほとんど期待できない、なんて話を聞いても、常識を覆される面白さは感じるんですけど、どこまでホントか、イマイチ情報評価ができないんですよね……。」


 ポロリ、と悩みを告白してしまったりもする。僕がひたすら喋りまくっているものだから、彼はどうも黙りがちだ。教育的配慮の美名の下に、僕はエゴを撒き散らす。彼がもっとずっと成長して、受け売りに潜ませた、僕の嘘っぱちを見破ってくれることだけを期待しながら。


 でも、まだまだ続く。どんどん続ける。


「文系的人間と理系的人間の、一番の違いって何だと思いますか?」


 さあ、と彼は首をひねる。


「僕は合理性とか効率に対しての素朴な信頼があるかないか、という点に尽きると思っています。文系のヒトって基本的に、無駄なものなんて何もない、と思ってるんですよ。その時代時代を覆う支配的な価値観とか、個人的な価値観とか、あるのは『価値観』だけで、崇拝の対象になるものに本源的な価値があるなんて思ってないんです。歴史的観点に立ったとき、比較的長期に渡ってその価値を認められてきたモノ、というのはいくつかあります。でもそれも、いつか無効になるかもしれない、とどこかで思うことをやめないんです。ええと、例えば『伝統芸能』と呼んでファンの少なくなった娯楽を守ったり、方言を保存したりするような運動を思い浮かべてください。ファンの少ない娯楽は金にならないし、言語的な差異は情報の伝達を阻害するだけですよね?でも、残すんです。それが文化的な多様性を保存することになるから。新たな創造の種になる可能性があるから。」


「新たな創造の種、ですか……そう言われると、なるほどそういうものか、っていう気になってきますね。」


 ありがとう。


「僕たちが今バスに乗って労働力を提供しにいくその先に期待してるのは、賃金でしょ?でも『お金』の価値だって、支えているのは人間の『信用』でしかない。誰も『お金』を信用しなくなれば、『お金』の価値なんてなくなってしまうんです。」


 彼の表情筋は動かない。


「あ、でも、これは公平を期して言っておかなければいけないことですけど、現代社会においては、合理性や効率、スピードは『勝利』です。」


 ですよね、という彼の表情が緩む。


 バスは目的の停留所に到着して、僕たちは現場に向かって歩き出す。それでも僕のお喋りは止まらない。


「ボク、ずっと弱かったんですよ、合理的なものの考え方に。一見理詰めで物事を進めるように見せかけておいて、突き詰めていくと単なる習慣とか、宗教的な教義とか、ごく個人的な価値体系にしか行き着かないような、そういう考え方ばかりしてきたんです。それじゃ、どこにも行けないんです。グルグルグルグル、堂々巡りをするばかりで。でも、求めてるものには結局行き当たるんですよね。本とか、WEBとか。僕は科学者や哲学者のブログを読むようになって、袋小路から抜け出すための方法を、少しずつ覚えていくことが、できるようになりました。」


「哲学……ですか?なんだか難しそうですね。」


「難しい……うーん、確かに難しい面もあると思います。でも、ハマるとスゴイですよ。哲学者の言葉って、とにかくかっこいいんです。すごく面白い。」


「かっこいい……哲学者の言葉が、かっこいい……?」


「あ、こういう言い方じゃダメか。えーっと、あの、哲学者の書く、良質の文章を読むときって、すごく気持ちいいんです。ものすごく切れ味がよくって。数学できる人なら、こういう例えが伝わりやすいと思うんですけど、複雑な応用問題を、一番シンプルな公式で解いたときの快感に近いものがあるんです。」


 彼の目が見開かれて、動かしていた足が一瞬止まりそうになる。


「ええ?!そ、そ、それはスゴイですね!いや、それ、すごくやります。問題が解けた後でも、もっときれいな解き方はないかって延々考えたりして……そうですか、哲学ってそんなに面白いんですかあ……。」


 少しでも哲学の硬いイメージが柔らかくなってくれれば僕は嬉しい。知は誰の入場も拒まない。拒むのは、その扱い方を誤る人間だけだ。時間をかけて余韻を味わって欲しいから、僕はほんの少しだけ沈黙することにする。


 しばらくして、彼が違う話題を提供してくれる。


「あの、高校生の頃にはどんなものが流行ってました?」


 流行りは無条件で馬鹿にするのが流行ってました、なんて意地悪は言わない。僕の周辺だけだったかも知れないしね。


エヴァンゲリオン!」


「あ、エヴァンゲリオンってちょうどその頃だったんですね!僕は小学生に上がるか上がらないかっていう時期だったんですけど……テレビでやってた時は観られなかったんです、とにかく怖くて。」


「うわー、そっか、それはわかる。無機的なイメージしかなかったロボットに、有機的な生命活動を与えたのって、庵野カントクが初めてなんじゃないかな。すっっっっっごいグロテスクだもんね、戦闘シーンとか。」


 そうなんです、と彼は頷き、でもその後ちゃんと観て、楽しめるようになっていました、と続ける。僕は他に流行っていたものを考え始めている。すぐに、流行とは決して呼べなかった出来事を思い出す。


「後はね……災害。人と、自然と。阪神大震災と地下鉄サリンって、1995年だよね。僕が17歳で、高校2年から3年に上がる頃に起こったはず……なんてゆーか、世紀末的でしょう?」


 ホントにそうですね、という彼の相槌を確かめて、僕の話はまた一人歩きを始める。


「イロイロと、おかしくなっていた時代ではあったのかもしれない。僕が大学に入ったばかりの頃だと思いますよ、あの、神戸の連続児童殺傷事件が起こったのも……でもね、正直な話をさせてもらえば、あの事件、報道の渦中で少しずつ真実が明らかになっていくのを目の当たりにしていたときの自分の気持ちっていうのは、『ハラハラドキドキ』以外の何物でもなかったような気がするんです。」


 オモシロ至上主義は、ここで挫折する。


「だって、完全に異常な事件じゃないですか。見たことも聞いたことも想像したこともない事件が、現実に起こっていたんです。学校の校門に、知的障害を負った子供の、生首が飾られている。そこに遺されていた犯人からのメッセージ。今は事件の全容を簡単に調べることができます。でも、あの時は誰もそんなもの知らなかった。サカキバラ、と犯人だった少年は名乗っていましたよね?あれが暴走族の落書きみたいな語呂合わせでサカキバラと読ませる、っていうことすら、事件初期にはわかっていなかったんです。暗号みたいだったんですよ、『酒・鬼・薔薇』という三つの意味不明の暗号が、メッセージの末尾に書き込まれている。すごく不気味で、恐ろしかった。ホラーとかスリラーなんて、比べ物にならないくらい。夢中、でした。」


 僕にとっての宮崎勤のような、彼にとっての酒鬼薔薇聖斗。僕はただぼんやりとニュース映像を眺めていた子供の頃を思い出しながら、彼も同じように、「どこか遠くに」感じていたのだろうと思っている。彼もいつか、加藤智大のことをこんな風に語ったりするだろうか?


「Nさんの中学高校では、どんなものが流行ってました?」


 質問の反対給付。


「ゲームです。とにかく、モンスターハンター──っていうゲームが流行ってました。」


 僕がさっぱり知らなくてポカンとしているものだから、「というゲーム」と付け加えてくれる。


「だいたいの人が、あらゆるハードを持っていて、あ、でもPS3はごく僅かでしたけど、家で遊ぶときはゲームばっかりしてました。」


 僕が子供の頃は遊びすぎるとハードを隠されたりしたものだけど、そういうことはなくなってしまったのかもしれない。反射的に浮かぶ「ネグレクト」という単語を、頭の中でパタパタと打ち消す。


「あと、もちろんマンガですね。やっぱりジャンプ系が強いです。『ONE PIECE』とか、『HUNTER×HUNTER』とか。」


「あ、どっちも大好き!ワンピースは少年マンガの王道だよね〜。『HUNTER×HUNTER』は……途中までは、まあ普通に面白いマンガかな、ぐらいの感じで読んでたんだけど、あのシーン……あの、なんだっけ、黒人のメイドの女の子だったかな、ページをめくったらさ、ホントに突然、パンッて頭を横から打ち抜かれる場面があったの覚えてる?結局その子は死んでないってことに後からなっちゃうんだけど、あそこでカンッペキにやられちゃってさあ、もうね、そっからは、全肯定!チョー面白いよね!」


 手をブンブン振り回しながら全肯定!とピョンと跳ねたところでNさんも笑う。


 今日の現場に着いた。話しながらの道中は短い。いつもこんな感じでお喋りか思索に耽ってるから、全然道を覚えないのかな。


 同じ倉庫会社でも、所変われば印象がまったく違う。前の現場は「倉庫街」というか「工場密集地域」の中の一倉庫だったけれど、今回の現場は、いかにも「地代の安さ」と「物流拠点としての汎用性」が妥協しました、といった感じの郊外にある。白い、清潔感のある建物の中を、制服姿の事務の女性に案内されて上っていく。


 軍手とカッター、それにマスクを装着して、僕たちはパーテーションで区切られた控え室を出る。


 倉庫内。


 休憩室やトイレ、喫煙所などの案内をまず受け、それから午前中の作業を説明される。登場する人物、アイテムや機材は、以下の通り。


フォークリフト
・監督兼フォークリフト運転者
・空きコンテナ(たぶん20トン)
・パレット(前回説明。木製。)
・ポリスチレン(プラスチックの原料。ペレット状に加工されて袋詰めされたもの)
日雇い派遣二名


 倉庫の一角に、ポリスチレンの山がある。40袋ごとにパレットの上にまとめられ、そのパレットが積み重なって計16台。それを一台ずつフォークリフトでコンテナの内部まで運ぶ。


 そこからが僕たちの仕事だ。ポリスチレンは、業務用の巨大ラップでパレットごとくるまれている。まず、それをカッターで切り裂き(袋は崩れだしたりはしない)、ポリスチレンを一袋ずつ、コンテナの床に積み重ねていく。コンテナの奥からビッシリ詰めていかないと、ポリスチレンをすべて積み込むことができない。そのために、コンテナの奥に向かって横向きに、ポリスチレンを1列3個、15段まで重ねる。10段以上になると、持ち上げるのが困難になってくる。そこは同じポリスチレンの袋で、次の列となる場所に足場を築くことで解決する(5段程度)。


 15段、というのはコンテナの天井ギリギリの高さだ。袋を置くときに、平坦に均しながらでなければ、14段積んだところで僅かな隙間しか残らない。最初のうちはうまく均すことができず、押し込むために必死の努力を重ねた。斜め上方に、力いっぱい突き上げる。日常に要求される動きではない。怠惰な生活に慣らされていた筋肉が、すぐに悲鳴を上げ始める。そのうち、バンと置いたポリスチレンの袋を、上からドカドカと叩く動きを加えるようになった。これで多少厚みが減る。14段まで積んで、十分なスペースが確保できているとすごくホッとする。


 フォークリフトの動きは実に巧みだ。センチ単位でコンテナ内部に進入し、同様にリフトの高さを調節してくれる。積み下ろし、積み上げるための労力を最小限にするための工夫だ。物理に詳しければ、位置エネルギーはリフトの微調整によって何キログラム減殺され、なんて計算もできるんだけど(労力は変わりません)。


 とにかくNさんがスゴイ働きを見せる。僕が4個積むうちに、彼は5個積む。僕が15段目をうまく押し込めずにうんうん唸っていると、すかさず彼が助けの手を差し伸べてくれる。彼と僕から等距離にあるポリスチレンの袋は、必ず彼が奪って積み上げた。体格もいいけれど、マインドはそれ以上にいい。一緒に働いていて、こんなに楽な相手はいない。とても嬉しいのだけど、僕は自分が年上であることがちょっぴり申し訳ない(嬉しさ:申し訳なさ=10:1)。


 午前休憩で、彼が中・高と野球部だったことを知る。


「腰を悪くして、あんまり活躍できなかったんですけどね。」


「腰?うわー、男の宿命だね。どんな特訓したのさ?」


「素振りのしすぎ、かなあ?」


「一体何万回バットを振ったんだ!って感じじゃない?」


 ホントですよ、と彼が笑うので、僕も一緒になって盛大に笑う。


「僕もありますよ、腰が駄目になって、立てなくなった事。喫茶店でバイトしてた頃にね。」


 老人並みの病気自慢トーク


 休憩時間は終わって、僕たちは再びコンテナに入る。もう、二人ともマスクは顎にかけたままだ。とんでもない量の汗が出て(その後二人とも極度の汗っかきであることを確認)、マスクはすぐにびしょ濡れになってしまった。窒息するっちゅーねん。


 作業を再開してすぐに、僕が言う。


「腰の話なんか、するんじゃなかった。」


「まったくです。」


 逆プラセボ効果


 それでも僕たちは動き続け(活動を停止することなく!)、ポリスチレンの袋を積み込み続けた。


 昼休みの始まる12時まで、20分程度残して作業完了。



 ……終わった?



 ……ホントに?



 ……午前中だけで?


 スゴイ!!!


 昼休みが始まったときには僕の興奮は密かに頂点に達していて、またもNさんに向けて喋りまくる。


「うわー、やった!スゴイね!ホントに最後までやれるなんて、言わずにいたけど、絶対不可能だと思ってたよ!途中で力尽きて、監督してた人と選手交替すると思ってた!いやー、今まで自分は非力だと思って甘やかしてたけど、やればできるもんだね!いや、自分の身体を見直しました!よくやった!」


 よくやった!と言いながら、僕は自分の胸や腹をバシバシ叩く。よくぞ限界を超えた!君たちの健闘ぶりに、ワタシは感動の涙を禁じえない!


 Nさんは、頑張りましたね、と言ってニッコリ笑う。


 僕は殊勲賞を、あなたのその穏やかな微笑みにあげたい。


「Nさんが今日のパートナーで、僕はホントにラッキーでした。Nさんは、僕がパートナーで、アンラッキーでしたね。申し訳ない。」


「そんなことないですよ、僕もTさんがパートナーでラッキーでした。」


 こんこはえーこじゃあ!!わしゃあんたに会えて嬉しい!!どこに出しても恥ずかしくない!なんの権威もないけど、僕が保証する。キミ、サイコーだよ!


 とまでは口にできないけれど、そのくらい僕は気分が良かった。第一印象、間違ってなかったね。いやはや、いるもんです、こんな人が。


「……それにしても、運びも運んだり、だね。えーっと、パレット一段にポリスチレンが40個で、パレットが16段……だっけ?計640個のポリスチレンの袋が、一袋あたり25キロだったから……全部合計すると……1600キロ?」


 一桁間違えました。


「うわっは!やばいよオレたち!トン単位で仕事しちゃったよ!」


 二人でバカ笑いしながら、控え室に戻り、休憩室に移動して、昼食をとる。エアコンとテレビの使用許可も出て、涼しい部屋で「笑っていいとも」を観ながらもそもそとおにぎりを食べる。テレビの画面には芸能人の子供時代の写真が大写しになり、「さて、これは誰の子供時代の写真でしょうか?」なんてクイズをやっている。悩んだ挙句に、長門裕之!と名前を挙げると……正解は津川雅彦であった。実に惜しい。


 汗だくなので、エアコンの効いた部屋にいるとドンドン体温が奪われる。早々に食事は切り上げて、喫煙所に行くことにする。Nさんも「タバコは吸いませんけど、お付き合いしますよ」といって一緒に歩き出す。


 タバコをふかしながら、また、たくさん話をする。僕はNさんがすっかり好きになってしまっていて、当初の気持ち──僕と同じ悔いを残して欲しくない──はますます大きくなっている。元々お節介な人間が、輪をかけてお節介になるのだから質が悪い。そんなヤツの話した、押し付けがましい訓示の数々。



「法と政治と経済は、成人する前に勉強したほうがいいです。新聞でもなんでも読んで、自分で勉強しないといけません。そうしないと、年齢的に成人に達しても、精神が成人になれません。僕は未だに成人になりきれずに、面倒事をいくつか抱え続ける羽目になりました。」


「法と、政治と、経済ですか……。」


「学校では必修ではないでしょ?全部少しずつ公民の授業でならったかもしれないけど、自分の問題として考えられるようになるまでやらないと、やったことにはならないんだよね。これは構造的な問題でもあるんだけど……あの、教育って、『政治的に中立』でなければならないんです。日教組は完璧に左翼組織なんですけど、偏向した内容を教えることはできない。それじゃ単なる洗脳になっちゃうからね。歴史の授業も、現代史まではたどり着かないでしょ?」


「ええ、ほとんどやりませんでした。」


「僕も昔は、授業の進め方と教育すべき内容の過剰に原因があると思っていたんですけど、今はどうもそうじゃない気がします。人間て、絶対に主観から逃れられないんですよね。完全に歴史として公認された内容以外を教えるとき、厳密な中立性を保つためにはものすごい努力が必要になります。そういう努力を前にしたときに感じる心理的抵抗感、それに、今まさに僕たちが生きているこの時代に、生々しく関連した問題を扱うときのためらい、そんなものがほとんど無意識の裡に授業を遅らせているような気がします。」


 Nさんは静かに僕の話を聴いている。


「ごく稀に──僕が高校時代に授業を受けた、社会の先生に一人だけいたんですけど──デリケートな問題に触れる方がいるんですよね。そういう先生は、とにかく国際条約とか、講和条約とか、国家レベルで締結された様々な条約の内容を徹底的に読み込んだ上で、関連文献を読んで更に自分の考えの筋道を研ぎ澄まして『これしかない』って言えるところまでたどり着いたからこそ、っていう気迫を感じさせてくれました。北方領土に関してだったんですけどね。」


 北方領土──僕が生まれてから一度も日本の管理下にあったことのない「日本固有の領土」。


 Nさんがおずおずと口を開く。


「うちは祖父が戦争体験者で……でも、話したくないみたいですね。思い出したくもないみたいです。ほとんど話を聞いた事がありません。」


「辛いことかも知れないけど、無理やりにでも聞いたほうがいいですよ。戦争体験者でもいい加減な話をすることはあるけど、非体験者は政争の具にするために、もっといい加減な話をするものですから。」


 そして僕はますますいい加減な話をするのだ。


「あ、あと、なんだか大人になると、陰謀が好きになるみたいなんですよね。表面上はこんな風に見えるけど、実はこうなってるんだ!みたいな。大体は、アメリカ、ロシア、金、石油、巨大企業、軍産複合体とか、そんなところでオチが着くヤツ。慣れといたほうがいいかも知れない。別に、特別な根拠があって言ってるわけでもないから相手する必要なんてないのがほとんどなんですけどね。」


 陰謀、という言葉の怪しげな響きに、彼も少しだけ興味を引かれたようだ。


「例えばね……最近僕が考えたのは、『日本の領土権争いはすべてアジア諸国との密約の元に実行されている』っていうヤツなんです。日本て、ロシアとも韓国とも中国・台湾とも国境周辺で争ってるでしょう?これは第二次大戦後からずーっと続いてて、まったく解決される気配が見えない。なんでだろう、と考えたら、意外なところに答えを見つけたんですよ。」


 間を取って、彼の好奇心が増大するのを待ってしまったりもするのだ。


自衛隊です。自衛隊って、憲法違反でしょう?国際協力活動に対しても、違憲判決が出されたりしてますよね。アメリカに『思いやり予算』なんていって基地の借地代やら仕官達の邸宅の建築費用を出した上で、じゃあ日本の軍事費がその分低減されているかと言えば、そんなこともない。それどころか防衛庁がいつの間にか防衛省に格上げされて、社会保障費削減だの不況だのと言っている現状にも関わらず、逆により多くの予算を獲得しそうな匂いすらしている。核開発を進めるべきだという議論さえ起こる、そういう現状に対して、ほとんどの一般市民は嫌悪感しか抱いていません。

 ──けれど自分がもし、国家の軍事活動を掌握する立場にいて、かつ反戦論議自衛隊縮小論、あるいは撤廃論を抑制したいと思っていたとします。その場合、いくつかの対策を打ち出すでしょう。まず、『アメリカは守ってなんてくれない』という共通認識を作り出すための言説を組織的に流布すること。それから、ナショナリズムの潮流に棹差し、そこに独立国家に不可欠な組織としての軍隊、というイメージを付与すること。そして最後に、『領土争いを継起させることで、他国の侵犯を起こりうる恐怖として国民に認識させること』、です。どれも少しずつ起こっていますよね。でも、僕は日本と周辺諸国が『国境紛争』と呼べるほどの争いを起こした事例を知りません。時々過激な人が問題の土地に上陸して、自国の旗を立てる程度です。北朝鮮だって、誰もいない海に向かってミサイルの発射実験をするだけですからね。にも関わらず、領土争いは繰り返され、国際会議で実りある議論がなされることはありません。不自然だと思いませんか?そんな不自然な状態が何十年も続くための条件として考えられるのが、国家の中枢にいる、一握りの人間だけに伝えられる国際的な『密約』、ということなんです。」


 Nさんは唖然としている。


「ね、それっぽいでしょ?でもこれ、どこにも証拠なんてありませんから。」


 え、とか、うわー、なんて声を出してしばらくそわそわしていたNさんが、ようやく落ち着きを取り戻す。


「いや、でも、すごく説得力がありました。」


 僕はアハハと笑ってから、


「こんなものに、騙されちゃいけませんよ。悪い大人はすぐにこういうことを言うから。しかも何故か、他所で聞いた事がないような話ほど、自分は秘密を知ってしまったと信じ込みがちなんです。」


と言う。


 その後も話題は転々として、今度は彼の野球部時代の話になった。野球部、と聞くだけで、高校時代のすさまじい光景が思い出される。グラウンドからは、いつだって監督の罵声と部員の掛け声が聞こえてきた。


「僕は軟式だったんですけど、今でも似たような感じですよ。」


「えー、そうなんだ!でも、体罰アレルギーって年々強くなってるし、親も教師への敬意を失って強く主張するようになってるでしょう。褒めて育てる、っていうのが、今の教育の主流なんじゃないんですか?」


「勉強に関してはそうかもしれません。でも、野球部はそんなに変わらないんじゃないかな。」


 彼は続ける。


「たぶん、僕らが監督とか学校を訴えれば、勝ちます。ただそうしたいとは思わないんですけどね。不思議なものです、ずっと怒鳴られ続けて、バカヤロー!とか、下手くそ!なんて言葉ばかり浴びて、みんな自信をカケラも持てずに、それでも続けていたんですから。」


 僕が高校時代、ずっと不思議に思っていたことを、野球部の中にいた人たちも感じていたんだ。


「中には……不条理な怒られ方とか、命令なんてものをされませんでした?」


「されました。監督からだけじゃなく、先輩からも。でも、従ってましたね。大抵の場合、おかしいな、とは内心思ってるんですけど。」


 自分が同じ状況にいれば、間違いなく真っ先に逃げ出している。とは言いながら、彼の「感じのよさ」の大半が、そこに由来していることも認めないわけにはいかない。


「すごいです。僕が体育会系の人を尊敬せずにいられないのは、そういう状況を我慢できる、その忍耐力ですからね。」


「そうですか?僕は……おかしい!って声を上げられる人の方がすごいと思いますけど……。」


「うーん……衝動、っていうのは、ほとんど誰にでも平等に訪れるんじゃないかなあ。でも、それをせずにいるための能力が、Nさんの中で開発されたんだと思います。」


 Nさんは目線を下げて、考え続けている。


「『マインド・タイム』、っていう本があってね。僕は実際には読んでなくて、著者が誰かも知らなくて、ブログに抜書きされてるのをちょこっと読んだだけなんですけど。すごく興味深い箇所があって、それがね、えーっと、あんまり上手に言えないんだけど、脳内の行動プロセスは、意識プロセスに先行する……そんな内容なんです。つまり、普段僕らは『これをしよう』『あれをしよう』とまず思って、それを実行に移す、そういう風に自分の行動を認識してますよね。でも、それは順序が逆らしいんですよ。まず身体が行動を始めていて、意識は後から『意図』や『理由』をくっつけるだけなんです。これってあからさまに言うと『自由意志の否定』なんですけど、じゃあ意識は身体の奴隷なのかというと、そんなことはないんです。意識には行動を『抑制』する力がある。動こうとする身体を止めることができるんです。」


 ああ、このまま社会有機体説に突き進みたい!


「回りくどくなっちゃって申し訳ないんですけど、その、上の立場にいる人に対して反抗『しなかった』Nさんは、意識の抑制能力を最大限に発揮していた、と言うことも可能なんです。僕はどちらかと言うと、言いたくなっちゃったことは何でも言っちゃうんですけど、はっきり言って恥じてますよ、こういう自分の性格。能力が低いんです、意識の。思うに、人は何をやったか、という事だけじゃなく、何をやらなかったか、によっても評価を受けるべきなんです。」


「そうなんですか……でも、僕にはやっぱりかっこいいです。言いたいことが言える人は。」


 僕らは平行線のようでいて、かすかに共鳴して震えている。こういう人となら、本当にいつまでも話し続けていられそうだ。


 あ、タバコが切れちゃった。まだ昼休みは30分近く残っている。どこか買えそうなところありましたっけ?とNさんに訊くと、バス停からここに来るまでのところにコンビニがあったんですけど……と答えが返ってくる。あー……ありましたっけ……。よかったら案内しますよ、と彼は並んで座っていたコンクリートから颯爽と地面に降り立ち、僕が降りるのを待ってスタスタと歩き始める。あまりの気持ちの良さに僕はやられっぱなしです。


 僕がこれから働くことになりそうな塾の事や、彼や彼の友人たちが通っていた塾の事を話しながらコンビニに向かう。鉢巻き締めて、絶対合格!なんてシュプレヒコールをすることになるんだろうか。柄に合わないけど、僕の柄に合うような仕事なんてどこにもないんだろうな、自分で作らない限り。


 コンビニには、お気に入りの銘柄が置いてあった。勇んで店員さんに声を掛け、支払いをしようとした手が止まる。


 これ払ったら、帰りの交通費なくなっちゃうじゃん。


 思わず弱弱しい声で、か、買えない、と呟く。店員さんに「すみません、やっぱりやめます」と言って(もちろんその前の呟きも聞かれている)、後ろで見守っていたNさんに、だいしっぱいだ〜、と言いながら店を出る。ごめんね、無駄足につき合わせちゃって。前回と前々回稼いだ分のお金は借金返済にまわしちゃったし、午前中に水分補給でジュースを飲みすぎたのがよくなかった。ううう、誤算だ……。


 とぼとぼ現場に戻り、着いた頃にはもうすぐ午後の作業が始まる時間になっていた。


 もう腕にほとんど力は入らないけれど、何しろ午前が午前だっただけに、どんな仕事でも楽に感じる。今度は、パレットに積まれた品物を、別のパレットに移し替える作業。ポリスチレンの時と同じように、まずラップをカッターで切る。それから品物を空きパレットに積み替え、きれいに積み上げたらラップで崩れないように固定する。


 なぜこれが仕事として成立するのか、いまいち理解できない。今日必要だったのは、コンテナに積み込むための人員だけで、後は「仕事らしきもの」を与えてお茶を濁しているのだろうか。


 と思っていたら、社員同士の会話が耳に入る。


「なんで積み替えてんの?」


「んー、パレット向こうのなんだよ。返せって言ってきてさ。」


 少し後で、また聞こえてくる。


「積み替え料、貰ってんの?」


「貰ってるよ。」


 どうも、倉庫業界では保管料以外にも、物資の移動に関しての料金体系が整備されているようだ。こういったささやかな積み替えでも料金は発生するものらしい。


 うーん。


 とは言え、パレットは大きな簀の子程度のものでしかない。業界規定でサイズは一定だろうし、社名は書き込んであるけれど、純粋に記号レベルの違いだけだ。積み替え料も大した事はないだろうし、新しいパレットを仕入れるよりは多少「まし」になる程度なのだろう。やはり午前中の仕事がメインだったか、あるいは社内、業界の論理が見えないところで働いていそうだ。疲れを別にしても、あまりモチベーションの上がる作業とは言えない。


 作業は倉庫内の少し開けたところで、粛々と進められる。社員はフォークリフトを駆使し、品物の積まれたパレットを、ズラリと並んだ場所から運んでくる。僕たちはそれを、違う社名の入ったパレットに積み替える。空いたパレットは順次積み上げ、フォークリフトは積み替えの終了した品物をまた別の場所に運んで、積み替え完了の張り紙をしてゆく。時々、思い出したようにリフトの高さを調節して、僕たちの負担を軽くしてくれる。


「そう言えば、ふとんなんてどこにも見当たりませんね。」


 作業中に、Nさんがふと呟く。


 あ、そうだった。僕たちは「ふとんの棚出し」と仕事内容を説明されて、ここまでやってきたんだった。それがあのポリスチレンになっちゃったのか。ずいぶんな変貌ぶりだなあ、なんて、のんきな話でもないか。


「うわー、そういえばそうだったね。言われて思い出したよ。しかも、思い出した瞬間からモーレツに腹立ってきた。」


 僕たちは作業を続けながら、怒りを募らせる。


「うん、僕は今日仕事が終わってから営業所に行くから、その時にしっかり苦情言っとく。」


 その話は、それだけで終わった。あーあ、前回の受け取りでもちょっと揉めたのに。これじゃクレーマー扱いされそうだな。


 それでも仕事は続く。ズラリと並んだ品物は、パレット十数段分もあって、どんなに急いでも時間内には終わりそうもない。終了時間まで、ひたすらこの作業を繰り返すことになりそうだ。ゲシュタルト崩壊が起こりそうなルーティンワーク。


 そんな状況でも僕たちが緊張感を途切れさせる事のないように、社員が声を掛ける。


「それ、一箱3万するから。落としたりしないように気をつけてね。」


 えー、こんなのが3万もするんですかー、と言いながら、品物をマジマジと眺める。除草剤だ。500ミリリットル入りのパックが、一箱に三つ入っている。大手石油会社の系列らしき、化学系企業の名前が印刷されている。


 ……あ、ヤバイ。


 また滅茶苦茶腹立ってきた。


 いやいや、ホントは全然そんな価格じゃないけど、十分気をつけて作業を続けるように、下駄履かせてる可能性だってあるじゃないか。(今書きながら思いつきました。)


 もしくは、非常に合成に困難を伴う成分が入っている、とか。


 希少価値の高い原材料が使われている、とか。


 どんなに企業努力したって、どうしても高価になってしまうものって、あるんだよ、きっと。


 ……。


 そんな風に思えたらいいんだけどなー。


 無理。


 社員がどこかに消え、Nさんと二人きりで作業しているうちに、また僕は熱くなってしまう。


「おかしいよ、コレ。」


「え?何がですか?」


「こんな薬品が、一箱3万もするなんて。」


「そうですか?」


「うん、どうしても正当な価格だと思えない。これって、要は農薬だよね。農家って、農協、いやJAか、そこに所属してると、栽培品種とか、栽培方法とかを結構うるさく指導されるんだよ。たしか、一年間に農薬は6、7回散布することになってると思う。一回あたりの散布量まではわからないけどさ、それでも紛れもない大量生産品だよ。原材料がよっぽどの希少品でない限り、こんな値段には絶対にならないと思う。農家って、国から補助金をもらってるんだよ。農産物は価格が不安定だし、収穫量あたりの価格も安いから。収入の半分くらいは補助金だと思う。それでも、大した収入にはならないらしいけどね。そういう農家にとっての必需品である農薬が、こんな価格で売られてるっていうのは、農家にも負担を掛けるし、補助金ももっと必要になるってことだよね。補助金ってのは、まあ税金だからさ。この薬品を作ってる企業は、税金を騙し取ってるようなもんだよ。どうせJAに食い込んで、担当者ズブズブにしたりしてるんだろうけど。そんなのが前例前例で引き継がれたりするんだろうな。ホント下らない寄生虫みたいなのばっかりだよ。ウンザリする。」


 そんなワタシは実家にパラサイトしてますが。


 疲労のせいか、暗い話ばかりしてしまう。


「なんかさー、この作業って、ナチの拷問そっくりだよね。」


「どういうことですか?」


「例えばさ、朝、囚人を集めて、看守が命令するの。『お前たち、そこに穴を掘れ!』って。それでせっせ、せっせと広くてふかーい穴を掘るでしょ?そうすると午後になってまた看守がやってきて、『お前たち、その穴を埋めろ!』って命令するんだよ。そういう、無意味であることを眼前に突きつけられながら、一分の達成感も得られず、強烈な肉体的疲労だけが残るような作業をさせたんだよね。なんか、似てる。」


 Nさんが嫌な顔をする。ごめんね、モチベーションを下げるような話ばっかりして。パレットが各社違う形だったりすれば、もう少しわかりやすい達成感が得られると思うんだけど……。


 でも、僕たちは働くペースを落としたりはしない。自分に恥じるような働き方はしない。


 少しは明るい話題も出た。女の子の話や、マンガの話。Nさんは今彼女がいないらしい。でも、そんなの全然心配要らないよ。Nさんのこと、頼んでも手放してくれないような女の子がいっぱい出てくる。優しいし、素直だし、ガタイもいいし、辛抱強い。安定志向が強いのも歓迎されるだろうし、顔だってハンサムなほうだ。服装だってオシャレじゃないか。そんなことを感じていたのだけど、いざ口にしようとすると「いやあ、いいところが多すぎて、どこから挙げていいのかわからなくなるくらい、いい男だよ」なんて、ちょっと誤魔化し気味の表現になってしまう。失敗。


「ワンピの作者って、マンガ以外でメディアに出てるの見たことないんですよね。」


「ワンピ……え、尾田栄一郎?いやあ、必要ないんじゃない?マンガ描くのだけでも大変だろうし、わざわざ自分で販促しなくたって、十分コミックスも売れてるし。」


「いやー、もっともっと色んなところに出て欲しいですね。ガンガン稼いで欲しいです、あの人には。」


 僕はたまらず吹き出す。


「あれ以上稼いでどうすんの!コミックスは連載終了しても売れ続けるんだから、あの人は一生お金には困らないよ。」


「だってあんなマンガが描けるなんて、スゴイじゃないですか!スゴイ人はたくさん稼いでもらわないと。」


 あ、これはちょっとマズイかもしれない。いや、僕が今ビンボーだから言い訳するんじゃないですよ。いえあの、多少はそういうものも含まれてるかもしれませんけど。


「それは違うよ。ある程度を超えて金を稼ぐのは無意味だし、むしろ有害。多少モノのわかった人なら、恥とすら思うんじゃないかな。僕がもし何かしらの幸運に恵まれて好きなだけ稼げる立場になったとしても……そうだね、2000万くらいあれば十分かな。(サラブレッドほしー。)」


「そうですか?お金って、稼げば稼ぐほどスゴイんじゃないんですか?」


 収入の多寡は、人間的価値の証明になんてならないよ。もっと説明してもいいけど、あんまりしつこくするのも、強く言うのも、好みじゃない。一応、今の僕の立場っていうのもあるしね。ビンボー人の僻みだと思われてもつまらない。


「そんなことはないと思うよ……まあ、ある程度を超えて金がないのは問題だけどさ。僕は今日、Nさんにすごく助けてもらったから、帰りにジュースの一本でも奢って感謝の気持ちを表したいところだけど、それすらできないんだからね。」


 貧は罪ならず、されど無一文は恥なり。ってとこかしら。アタマはともかく、僕にはそこそこ健康な身体があるんだから。


「いえ、そんな……。」


「だから申し訳ないけど、気持ちだけ。ホントに気持ちだけ送ります。今日はどうもありがとう。すごく助かったし、いい気持ちで働かせてもらいました。みんなNさんのおかげで、今日はうまくいきました。身体はヘトヘトだけどさ。」


「僕もTさんのおかげで助かりました。いろいろ勉強にもなりましたし。」


 いつもあなたのような人と、仕事ができればいいんだけどね。


 仕事終了5分前になっても、会議に行った社員は戻ってこない。僕たちはできるだけの後片付けをする。少し時間をオーバーして、すぐさま「サービス残業」という言葉が思い浮かぶ自分を、テキパキ動くNさんを見ながら反省する。アルバイト根性って、なかなか抜けない。


 控え室に戻る途中で制服を着た事務の女性に「終わりました」と声を掛け、名前と出退勤時間を帳面に記入して、僕たちは現場を後にした。


 帰り道、僕たちは少しだけ正直になる。


「正直なところ、Tさんが一緒じゃなかったら、社員が会議でいなくなったあたりから、サボってたと思います。」


「わははははは!それ僕も同じだよ!僕たち、お互いのマジメさに影響を受けあって、一所懸命働きすぎちゃったね。」


 Nさんのケータイが鳴る。派遣会社からだ。ええ、終了しました。はい、え、日曜日ですか?いや、ちょっと約束ができちゃいまして、お断りさせてください、すみません。はい、失礼します。


「会社から?」


「はい、そうです。またあそこでやってくれないかって言われて、嘘ついて断っちゃいました。」


「あはは、まあしょうがないよね、キツかったし。あれ、でもソコの現場3度目だって言ってなかったっけ?今回みたいにキツイのは例外なんじゃないの?」


「そうなんですけど……心が折れました。あの、除草剤を移し替える作業の途中で。」


 ナチの拷問だの、無意味だのとひどい事ばかり言った、僕にも責任の幾分かはあるかもしれない。


「もっといい印象があったんですけどね。前に一緒になったヒトなんて、『他の現場の社員も、このぐらい感じがよければいいのに』って言ってたぐらいですから。」


「あー、それは……後ろめたさの裏返しかも。」


「ま、でもこれで夏休みのバイトは終わりですから。学期が始まったら、飲み屋でバイトしようと思ってるんです。」


「そりゃまた……タフなところを選ぶねー。」


 えっ、という沈黙が少しあって、ためらうような表情を見せる。あ、このヒトの前では、あんまりネガティブなことを言わないほうがいいのか。


 ○○商店、と大きく書かれた看板のかかった、駄菓子屋らしきお店の前を通り過ぎる。シャッターは閉まっているけれど、そのシャッターを背もたれに、子供が四人、並んで座っている。みんな、手元のDSの画面を見つめている。なかなかシュールな光景だ。


「なにか、感じる?」


 歩きながら、僕はNさんに尋ねる。


「ええ、すごく違和感があります。ゲームは家で、外では外でしかできない遊びをする。駄菓子屋では、駄菓子を食べる。それが当たり前だと思いますよ。」


 そうだよねえ。


 バス停に到着。僕たちの座ったベンチのすぐ裏には自動販売機がある。喉はカラカラだけど、僕は何しろ金がない。家に買い置きしてあるビールまでは、あと一時間と少しでたどり着ける。それまでの我慢だ。


 Nさんが自販機の前に立って、「あ、ダメだ」と独り言を言って戻ってくる。五千円札と二千円札しかありませんでした。僕も飲み物は我慢します。


 つきあわせてしまったかもしれない。ごめんね、Nさん。


 バスがやってくる。そこからは、後学のために、Nさんが通っていた塾の話を集中的に聞くことにする。それから、学校も含めた、好きだった先生の話を聞く。すごく変人ぽかったけど、その先生の授業を受けているときに理系に進むことを決めた先生。学校の中でお酒を飲んでいたところを見つかったけど、見逃してくれた先生。色んな話を聞く中で、彼が特に信頼していた先生の特徴が見えてくる。


 説明能力の高い先生。


 受験の技術的な部分も惜しまず教えてくれる先生。


 授業の開始時間と終了時間をきっちり守り、時間いっぱい使う先生。


 生徒に対しての敬意を感じさせてくれる先生。


 僕が塾講師になったら、どんな先生になるだろう。どんな先生だと思われるだろう。やってみなければわからないけれど、想像はいくらでも膨らんでいく。


「やっぱり、そういう先生に褒められるのって、嬉しかった?」


「ええ、勿論です。」


 バスは駅に着いた。駅の階段を上りながら、僕は高校時代の思い出を話し始めた。


「僕もあります、先生に褒められて、ものすごく嬉しかったことが。あの、大学紛争とか、全共闘運動とか、聞いたことがありますか?」


「ええ、少しくらいなら。」


「高校時代の理科の先生に一人、そこに参加したことのある先生がいたんです。チョビ髭を生やしていて、ダンディで、すごく紳士的な感じのする先生だったんですけどね。けっこう過激なグループに属していたらしくて、内ゲバで──まあ、リンチみたいなものなんですけど──目の前で人一人死ぬところを見た、なんて話も聞きました。勉強とは関係ないんですけど、そんな先生が、僕の書いた小説を褒めてくれたことがあるんです。卒業した後、文化祭期間中だった母校に行ったら……。」


「あ、僕は切符は買わないので、ここで失礼します。下りの電車はホームが反対側ですから。」


 あ、そうですか。じゃあ、今日はホントにお疲れ様でした。ありがとね、色々と。僕らはお互いに頭を下げて、改札の前で別れた。


 ……なんだ、付き合ってくれてただけだったのか。


 ダメだなあ、いい気になってベラベラと。


 これじゃ、この前の現場で会ったアノ人と、大して変わらないや。


 ……かーえろ。


 あ、でも、最後にもう一仕事残ってるんだった。


 僕は電車に乗って、派遣会社と、自分の家がある町に戻る。営業所に着いて、名簿に名前と登録番号を書き込み、名前を呼ばれて報酬を受け取る。


 さて、と。


「あ、あのー、今回の仕事……事前に紹介されていたのと、現場で実際にした仕事の内容が全然違いましたよ。ふとんの棚出し、っていう紹介を受けたんですよ。それで現場に行ったら、ふとんなんてどこにもなくて、午前中だけで、一袋あたり25キロもあるポリスチレンの袋を、二人で640個もコンテナに積み込んだんです。おかしいですよね。こっちは、どこでこういう誤解が生じたのかわかりませんよ?クライアントが嘘を言ったのかもしれないし、あなたたちの会社の営業が『うまくやっときますよ』とかなんとか言って、時給を上げずに人を集めたのかもしれない。わかりませんけど、はっきり言って騙された感じは受けました。キツかったから文句を言ってるんじゃありません。ちゃんと説明されて、納得してやった仕事ならそれでいいんです。でも、そういう説明を受けられなかった、覚悟なしで仕事をして、予想以上に疲れる羽目になった、それが不満なんです。しっかり仕事内容を把握して、内容に見合う時給を設定して、それで納得する人を集める、それでも集まらなければ、時給を上げるなりスタッフに電話を掛けまくるなりして、とにかく手を打って人を集めて派遣する。そういうことが、あなた達の仕事なんじゃありませんか?」


 クレームだとわかった途端、受付に出てきた社員の姿勢と態度が硬直する。僕が一通り話し終えたところで、彼も一気に話し始める。


「仰ることはよくわかります。実際の仕事の内容は、一袋25キロのポリスチレンを、640袋コンテナに積み込んだ、ということで間違いありませんね?」


「午前中だけでね。」


「ええ、午前中だけで。わたしたちは、お客様からお話を受けて、それをスタッフに伝えることしかできません。実際にはそういうお仕事をされた、それは紹介された仕事内容とはまるっきり違っていた、ということ、お客様に直接お伝えしてもよろしいでしょうか?」


 オイ、オイオイオイオイ。


「え……ええ、構いません。」


 こちらの逡巡は見抜かれた。


「この度は、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。今後このようなことがないよう、紹介するお仕事の内容確認には細心の注意を払います。どうか今回のことでお気を悪くなさらず、今後とも宜しくお願いします。」


「あ、はい、よろしくお願いします。」


 バカみたいな返事をして、僕はそのまま営業所を後にする。


 あー、びっくりした。まさか客に全責任をおっかぶせて、こっちも被害者ですみたいな顔をするとは思わなかった。あ、そーいう風に話を進めないと、もっと金寄こせみたいな話を始めるスタッフがいるからか。いやー、それにしたって……クライアントも、スタッフも、どっちもいなければ仕事が成り立たないのに……。もしかしたら、日雇い派遣会社を利用する会社ってかなりあって、派遣会社の立場って強いのかなあ。それでも、事実強くたって、低姿勢でいるほうが仕事はやりやすいと思うんだけど……よくわかんない。あー、あの人の口調ものすごい滑らかだったなー。あーいうクレーム、多いんだろうなあ。いやだなあ、機械的に処理されちゃって。


 あーあ、二回連続でやな気分。さっさと日雇いからは足を洗いたいな。


 塾講師のアルバイト、通るといいんだけど。



疲労度: ★★★★★ ★★三(まさかの七つ星。バージュ・アル・アラブ!)


 物流のお仕事ってタイヘン。二日ほどじっくり休んで、ムキムキになった胸筋や二の腕を鏡の前でポージングしながら確認し、陶然とする(嘘です)。