現代の若者より(30ですけど)

 10月21日の内田先生のブログには、二つの問いがある。


 それはタイトルにもある「若者は連帯できるのか?」、そして、「自分の『自分らしさ』を構成するもののほとんどが『誰かと共有されているもの』である、という矛盾を、若者たちはいかに糊塗しているのか?」という問いである。


 ではまず、「若者は連帯できるのか?」について。


 これについては、僕の意見は内田先生とほとんど変わるところがない。


 連帯する可能性(ましてや革命の可能性など)は皆無(きわめて少ない、という内田先生の表現は温情である)だと思っている。


 僕自身も人のことは言えない。認識を研ぎ澄まし表現を研ぎ澄まし、それで人とは違う何かにたどり着くことができるかもしれない、とそんなことばかり考えている。違うものになることに目標を置いてしまっている。


 少しくらいは大勢と違っているとすれば、「誰とも違ったものになれない」ことに絶望感を抱いていること、くらいのものだ(この感覚すら少数とは共有している)。


 この問いに関して、僕はまだこれ以上のことを書けない。



 では次の問いについて。


「自分の『自分らしさ』を構成するもののほとんどが『誰かと共有されているもの』である、という矛盾を、若者たちはいかに糊塗しているのか?」


 自分らしさ、それからアイデンティティについてなら、書けることは少し多くなる。


 これについては留保する点があるので、それを先に書いておく。


 僕が友人たちと語り合う中で、アイデンティティについて完全に同意してきた事項を一つ挙げるとするなら、


「あるっちゃあるし、ないっちゃない」


に尽きる。


 以下に記すのは、どちらかと言えば「あるっちゃある」に分類される話だ。



 まず、私たちが生まれながらに与えられる固有の情報について考えてみる。国籍、名前、生年月日、出身地、肌の色、性別などがそれにあたる。


 それらの一つ一つは、特有のものではありえない。日本国籍を持つものは1億2700万人ほどおり、同じ生年月日に生まれるものも大勢いる。大半の妊婦は出産する場所を病院に求め、そこには他の多くの妊婦が出産を待っている。肌の色はモンゴロイドならみなほとんど同じだ。性別に関して言えば僕は男だから、全世界の人口を67億人として、34億人くらいはいるだろう。


 それから、名前。僕自身は、同姓同名の人間に会ったことはない。それでも、同姓や同名の人間に会わないこともないし、同じ漢字もいくらでも使われている。特に日本においては、苗字が明治期に粗製濫造されたものであることも常識の範疇に入る。


 ところがどっこい、である。


 遺伝子は特有だ。


「何を言うか、両親から受け継いだ『切り張り』であろう!」


 ええ、仰るとおり。ただし、その詳細について異論がある、と申し上げているのです。


 この点について正確を期すためには、分子生物学を専門、あるいは趣味にする方のお力を借りなければいけない。だが、そこは門外漢の気楽さで乗り切らせていただこう。


 あらゆる人間は、遺伝的な突然変異を抱えている。


 けれどそれは「DNA」レベルの話であり、「遺伝子」レベルの話ではない。


 肉体的、表面的に発現しない形での、つまりジャンクとしての突然変異である。僕たちは常に、唯一性と共に生まれてくる。


「へえ、『世界に一つだけの花』だね。で、それで?結局標準化されて似たような振る舞いをするようになっていくじゃないか。」


 ええ、仰るとおりです。


 だが、「共同幻想」という言葉を持ち出すまでもなく、それが「似たような振る舞い」どまりであり、完全に一致することはありえない、ということを僕たちは知っている。僕たちに可能なのは、無限の漸近運動を続けることだけだ(そして「阿吽の呼吸」という幸福な錯覚を得ることだけだ)。


 傍証の一つとして、神経細胞の構成について語るのもいいかもしれない。


 視界に入る人間たちが、五感を通じて入力されるあらゆる情報が、僕たちの神経細胞を発展、接続、強化させてゆく。


 「わたし」と同じ空間を占める人間はいない。


 完全に同一な情報を得続ける人間はいない。


 結果、あらゆる人間の神経細胞は独自の構造を持つことになる。


 これで、二つ。人間が必ず唯一性とともに保持するものを挙げた。一つは遺伝子であり、また一つは神経細胞である。


 どちらも、決して有徴的ではない。それらが「弱い」ことは、僕自身が一番よくわかっている。


 だが、僕はその「弱い力」を、個々人の唯一性を守るためにただひたすら繰り出していくことが、ヒトという生き物の根源的な営みであるような気がしている(今は特に)。


 そんな気持ちにさせられたのは、ご存知町山智浩さんのブログを読んでのことだ。正確に言えば、アニエス・ヴァルダ監督の『幸福』という映画に関する町山さんの解説を聞いたときのことである。


 エデンの園で遊ぶアダムとイブのように純真無垢な家族が、「エゴ」によって崩壊していく。


 町山さんは『幸福』を、そう総括した。


 けれど、僕は町山さんの解説の中に、まったく違う解釈を見た(ので、『幸福』はいつか観なければいけない映画リストに登録された)。


「これは……唯一性の剥奪を描いた映画だ。」


 まったく同じ幸福が、妻を入れ替えただけで展開していく結末。あるいは、溺死した妻を抱き上げる瞬間の映像が、撮影の角度を変えて何度も繰り返されるカット(まるで、このような痛ましい悲劇すら、幾度も繰り返され、これからも繰り返されていくのだ、と言わんばかりに)。


 僕には、『母を訪ねて三千里』というアニメが制作された理由がわかった気がした。


 後妻と継子にまつわる様々が語られてきた理由がわかった気がした。


 フロイトが「エディプス・コンプレックス」という概念を発明した理由がわかった気がした。


 フェミニストが「『母性愛』という神話」と呼んだのはコレのことか、とも思った。


 制度やタブーは、唯一性を守るために存在していたのか、とすら思った。


 国籍、名前、生年月日、出身地、肌の色、性別、血縁、人間関係、どれもこれも「弱い力」でしかない(そして遺伝子や神経細胞も)。そんなものはいくらでも千切れる。関係ない、と忘れられる(「喪失」「不在」という美しい物語と引き換えに)。けれどその「弱い力」がなければ、人間は唯一性や個別性を保持することができない。


 茂木健一郎さんが、その再現性の無さにも関わらず「クオリア」を自然科学の土俵に上げようとしているのは、クオリアが人間の個別性を新たな側面から照らし出すものだからだ。僕はそんな風に思う。


 だから僕はいま、「あるっちゃある」の方に少し重心を置いている。


 ただ問題は──問題なのだろうか?──、内田先生は決して、「弱い力」を否定する人ではない、ということだ。それはブログを継続的に読んでいる人なら誰でもわかる。


 例えば、「弱い力の複合による唯一性の確保」という提案が、内田先生ご自身によってなされたことがある。「レヴィナス、フランス語、ユダヤ論、合気道といった複数の指標を同時に適用することで稀有な存在たる」内田先生の有り様について語ったエントリがそれだ。『ひとりでは生きられないのも芸のうち』もまた、人間関係という「弱い力」を緻密に編み上げることで自らのセーフティネットを形成する、そういう「弱い力」の積極的な活用についての本と捉えることができる。家族論についても同様だ。


 ではなぜ、内田先生は「外見上はほとんど違いのわからない服のブランドと価格とその記号的意味をぴたりと言い当てる能力」を、そういう「弱い力」にカウントしないのだろうか。


 なぜ「『むかつく』という形容詞をピッチを変えたり、声門の開きをコントロールしたりして、36通りに変化させて使い分ける技術」を、そういう「弱い力」にカウントしないのだろうか。


 その理由として思いつくのは、それらは「人を分ける」ということだ。前者は階級を生み、後者は敵と味方を分ける。


 だが──。


 「弱い力」のほとんどは、どこかで争いの素地になることをやめない。


 芸術ですら、「わかる」「わからない」で人を分け、地位や洗練や感性や教養を階級化する助けになってきた(そしてたくさんの裸の王様を生んだ)。


 いまの僕には、どう切り込んでいけばいいのかわからない。


 解決可能な問題なのか、解決すべきなのか、そうでないのかすらわからない。少なくとも、人類の文化はいまだ「弱い力」を手放す段階にはない、と思っている。



 えーっと、とりあえずここまでが、「現代の若者が自らの無個性をいかに糊塗しているか」の一例でした。長々とスミマセン。


 「大同小異」と言われて、「大同」の項に「人間」を、「小異」の項に「自分」を入れられる人って、そんなにいっぱいはいないような気がします。


 僕もサッパリ「博愛」や「無私」には至れませんし。


 内田先生と僕の「愛しなさいって」「いや、愛せません」「愛しなさいって」「いや、愛せません」のやり取りは、一体いつまで続くんでしょうね。



 ……あ、トホホって声が聞こえる!(幻聴)