小学生にもわかる文章

2月23日付の内田先生のブログに、先生が小学生向けに書いた文章が掲載されている。
これから社会人へ、また市民へと成長してゆく小学生たちに是非とも読んで欲しい文章である。
だが、残念ながら編集会議を通らなかった。
「小学生には難しいだろう」というのがその理由らしい。
わたしの書く文章は小学生向きじゃないですよ、と断りを入れた上で先方から熱望されて書いた文章が、「小学生には難しいだろう」という理由で不採用になる。
実に不思議な世界である。
それはともかくとしても、私は大人の下す「小学生には難しいだろう」という判断にはどうしても懐疑的にならざるを得ない。
子供にとって、「未知」は常態である。
世界は常に、「わけのわからないもの」としてやってくる。
言語や物語によって世界を分節し「未知」を「既知」に繰り込む、そのような作業は子供のものではない。
江戸時代、寺子屋で教えられていたのは四書五経だった。
子供たちはまるで呪文を唱えるようにして、
「シ、ノタマワク」
から始まる文章を音読していた。
無論現代の我々には、その教育効果を定量的に測ることは不可能である。
江戸時代に達成された数々の改革や明治維新を支えた人材に、寺子屋での素読がどれほど影響を与えていたのか知ることはできない。
けれど、そのように教育されていた人々は、日々の生活を送るうち、それまで「呪文」に過ぎなかった音の連なりが突如圧倒的なリアリティをもって肉感的に理解される、そんな経験を積み重ねていたのではないだろうか。
そういったものは、「子供にもわかるような」平易な文章を選択的に与えられていては決して得られない。
私は小学生のとき、吉川栄治の『三国志』を読んだ。
友人の家にあったMSXのソフト、光栄の『三国志』に触発されたのである。
友人と私は、競い合うようにしてその長大な歴史物語に取り組んだ。
知らない漢字だらけの分厚い本を、辞書を引いたり母親に尋ねたりしながら少しずつ読み進めていくあの愉悦を知った。
それまで、那須正幹の「ズッコケ三人組シリーズ」やモーリス・ルブランの「ルパンシリーズ」くらいしか読んでいなかった私は、その時初めて「まるで自分のものとは思われないような言葉」が口を突いて出る経験や、「限られた人間しかアクセスできない巨大な知」に触れる知的高揚感を味わったのであろう。
学校教育が、そのような機会を子供たちに積極的に提供しない点に関しては、残念至極と言うほかない。
残念ではあるが、それで終わってしまっては子供たちに内田先生の文章が届かない。
ということで、僭越ながら改変を試みた。


「もしも歴史が」


「歴史に『もしも』はない」というのはよく口にされる言葉です。「起きなかったこと」を考えることよりも、「起きてしまったこと」を受け入れるほうが大事だ、という意味です。
たしかに、「起きなかったこと」は起きなかったことですから、「起きなかったこと」なんか考えてもしかたがないのかも知れません。
でも、どうして「あること」が起きて、「そうではないこと」は起きなかったのか。その理由について考えるのはなかなかにたいせつな知性の訓練ではないかと私は思っています。
私たちにとっての過去は、昔の人たちにとっては未来でした。昔の人たちは今私たちが自分や世界の先行きをいっしょうけんめい考えるように、私たちにとっての過去のことをいっしょうけんめい考えていたのです。たくさんある可能性の中からたった一つが実現したからといって、それ以外の可能性をすべてなかったことにしてしまうのは、ずいぶんもったいないことだと思います。

歴史の勉強をすると、「出来事Aがあったために、出来事Bがその後に起きた」というふうに書いてあります。それを読むと、歴史的事件は一つの原因があって一つの結果が生まれ、順序よく続いていたような感じを受けます。けれども、ほんとうにそうなのでしょうか。というのは、私たちの世界で今起きている出来事の多くは「そんなことがまさか現実になるとは思いもしなかったこと」だからです。
例えば、フランスとドイツの関係はどうでしょう。フランスとドイツは、土地や資源をうばいあって、長いあいだ戦争をくりかえしていました。そんなフランスとドイツが、今では仲良くヨーロッパ連合の中心になっています。同じお金(ユーロという単位です)を使い、国境をこえるためのパスポートもいらなくなりました。第二次世界大戦前に、フランスとドイツの関係がそんな風に変わることを予測したひとはほとんどいませんでした。同じように、日本とアメリカのあいだにも太平洋戦争がありました。けれど今では、日本はアメリカとの同盟関係をとても大事にしています。太平洋戦争のころに、現在のような日米関係を想像した人はほとんどいませんでした。
「そういうこと」がいったん現実になってしまうと、みんな「そういうこと」が起こるのは必然的であったというようなことを言います。
でも、歴史上のどんな大きな事件でも、それが起こることを前もって知っていた人はいつでもほとんどいません。
同じことが未来についても言えるだろうと私は思います。
私たちの前に拡がる未来がこれからどうなるか、正直言って、私にはぜんぜん予測ができません。わかっているのは「あらかじめ決められていた通りのことが起こる」ということは絶対にないということだけです。後になってから「きっとこうなると私ははじめからわかっていた」と言う人がいても(たくさんいますが)、私はそんな人の話は信じません。

未来はつねに未決定です。
今、この瞬間も未決定なままです。
一人の人間の、なにげない行為が巨大な変動のきっかけとなり、それによって民族や大陸の運命さえも変わってしまう。そういうことがあります。歴史はそう教えています。誰がその人なのか、どのような行為がその行為なのか。それはまだ私たちにはわかりません。ということは、その誰かは「私」かも知れないし、「あなた」かも知れないということです。

過去に起きたかもしれないことを想像することはたいせつだと私は最初に書きました。それは、今この瞬間に、私たちの前に広がる未来について想像するときと、知性の使い方が同じだからです。
歴史に「もしも」を導入するというのは、単にSF的想像力を暴走させてみせるということではありません(それはそれで楽しいことですけれど)。それよりはむしろ、一人の人間が世界のなりゆきにどれくらい関わることができるのかについて考えることです。
私たちひとりひとりの、ごくささいな選択が、実は重大な社会的変化を引き起こす引き金となり、未来の社会のありかたに決定的な影響を及ぼすかもしれない、その可能性について深く考えることです。もしかするとほかならぬこの自分が始まりになって歴史は誰も予測できなかったような大きな変化を遂げるかもしれない。
そういう想像をすることはとてもたいせつです。
何より、「私ひとりががんばって善いことをしても、何が変わるわけでもない」とか「私ひとりがこっそり悪いことをしても、何が変わるわけでもない」というふうに自分と歴史とのつながりを無視し、何をするにもいい加減な人に比べて、自分と歴史とのつながりを重視してがんばっている人のほうが、今この瞬間においてはるかに人生が充実しているとは思いませんか。



 我ながら、困った曲学阿世ちゃんである。