「はい、ごろーん。」

妻とは知り合ってから十年ほど経つ。
結婚するまでの長い期間には、それはもう色々なことがあった。
ほとんど喧嘩はしないのだが、それ以外の、ごく普通のカップルの間に起こるような大体の出来事はあったものと思っていただきたい。
なぜだか最近、そのうちの一つをやたらと思い出す。
そして思い出すたびに「ぐふ、ぐふふ、ぐふふふふふふ」と終わりなき思い出し笑いの虜になって道行く人々に遠回りされたりしているのである。
何しろベッドの上の話なので良識ある大人としてはあまりおおっぴらにすべきことでもないのであるが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」という先達の言葉に勇気付けられ、思い切ってここに開陳することを決意した次第である。
世の男性諸氏は、「腕枕」というものをなされた経験がおありのことと思う。
そう、彼女の寝顔を至近で見られるがためについついやってしまうものの、だんだんと腕がしびれてきて腕を抜くタイミングに苦慮する、例のアレである。
私は腕枕をするのが好きである。(されるのもやぶさかではない。)
なんというか、腕枕をしているときの「庇護感」というか、受容することを許されるという形で受容されている感覚が好きなのである。(たぶん)
むろん、彼女にも腕枕をしてきた。
長年してきた。
私の後から彼女がベッドに入ってくるときにも、彼女の後に私がベッドに入っていくときにも、雨の日にも風の日にも私は腕枕を続けていたのである。
そのうちに、彼女は驚くべき技術を習得した。
なんと、完全に熟睡している状態であっても、私が一言、
「はい、ごろーん。」
と言うだけで、条件反射的にくるりとまわって私の伸ばした腕のなかにすぽっと納まるようになったのである。
すごいものである。
我々の腕枕道は、完成の域に達している。
私はそう確信した。
その確信が、のちに悲劇を生むことになるとも知らずに。
ある夜のことである。
すっかり熟睡した彼女の隣に、私はそっと忍び込んだ。
彼女がうまくベッドの半分を占領してくれていれば問題なかったのだが、生憎、彼女はやや中央に寄り過ぎたかたちで眠っていた。
はえいえいっと狭いスペースに潜り込み、しかしやはりスペースが足りなかったため、両方の腕をやや中空に浮かせていた。
腕を下ろすためには、彼女に移動してもらわねばならない。
起こさず、しかし、力強く。
私は倒れた芋虫のような塩梅で、腰を横に使ってぐいぐいと、彼女の腰を押し始めた。
その瞬間、である。
彼女の身体は、「ごろーん」だ、と錯覚した。
私の注意は腰に向いていた。
腕は中空に差し出されていた。
がばっと回転し始める彼女の身体を見て私が「あっ」と小さく声を立てる間もなく、
私の肘は彼女の顔面にめり込んでいた。
さあっと血の気が引く音を聞いた気がした。
全身からいやな汗が瞬時に噴き出し呼吸が浅くなって、心臓はその拍動を早くした。
彼女はばたりと元の体勢に戻った。
お、おお、おおおおおお、としばらく呻いていたが、またすぐに寝息を立て始めた。
た、助かった。
私もまた、ばっくんばっくんと鳴る心臓を秘めた胸を撫で下ろし、うまい具合に空いたスペースにのびのびと腕を伸ばして眠りに就いた。
ただそれだけの話なのだが、私にはやけに面白い。
彼女の顔面に肘をめり込ませた瞬間の衝撃と、おおおおおお、といううめき声を思い出しては笑ってしまう。
後日妻にも恐る恐る話してみたのだが、被害者であったはずの彼女まで腹を抱えて笑っていたのは、やはり不思議としか言いようがない。