山本太郎/散歩の唄

                          あかりと 爆に
右の手と左の手に
ぶらさがった子供たちが
上をむいて
オトーチャマという
俺も上をむいて
誰かの名前を呼びたいが
誰もいない
俺の空はみごとにがらんどうで
鳥に化けた雲ばかりが
飛んでゆく
すばらしいじゃないか
このがらんどうのなかで
お前達のオカーチャマが
一本のローソクのように
燃えていたのだ
燃えてふるえて俺をまっていたのだ
お前達もいつかは
がらんどうの空をもつだろう
そのときは ひとりびとりの
たしかな脚で立って歩いて
お前達の焔をお探し
ほら ぶらさがってはだめだ
もういちど上をみてごらん
もうオトーチャマの顔はない
間違ってはいけない
ゆらゆらゆれているのは
消えてゆく雲だ




「爆」「がらんどう」「オカーチャマ」「一本のローソク」「燃えていたのだ」という言葉の連鎖が屋根が吹っ飛ぶほどの爆風と遮蔽物を失い超高温の太陽に灼かれてローソクの燈芯のように燃え上がる一人のか細い女の姿を描いたものだから私はああ妻を亡くしたのかと早合点したのだが、よくよく読んでみるとそれはかつてともし火のように「俺」を導いた女の事だった。


私はこの詩を読み終えた瞬間に訪れた脳天からびりびりと裂かれるような衝撃を子供たちに伝えることは早々に諦めて、「いまの言葉で書かれているから口語詩で、句読点が打たれてないし音の数に規則もないし、改行のタイミングもまちまちだから自由詩。作者の心情を自分の子供に語りかけるように書いているから抒情詩だよね。」なんてことを喋り散らしている自分を嘲っている。


テキストと私の間にだけ現れる「人間」。


この詩は、お父さんやお母さんや先生がいなくなっても大丈夫なように自立した人間になりなさい、なんて言っているんじゃないんだよ。
もっともっとすごいことさ。
もっともっといろんなものがなくなって、なにひとつわからなくなって、それでも地面でもないような地面を歩いていかなければいけない人のありさまを描いているんだ。
そうやって歩いていくと、君たちはふるえている大人がせいいっぱいがんばって大人のふりをしていることに気付く。
そのときどうするかは君たち次第だ。
だって君たちは、もう誰もなにも決めてくれない世界に立っているんだからね。


吉野弘、河井醉茗、尾崎一雄中野重治、それに山本太郎
ぼんやり過ごしていたら知らないままだったかもしれない様々な名前を知る。


「天蓋のない世界」という表現は、このあたりから来ていたのかもしれないな。


「詩」と「熱狂」か。


またクンデラを読み返したい。
ずっと本を読んでいたい。