ここまでは、わかる

「労働者はみずからの生命を対象に注ぎこむ。しかし、対象に注ぎこまれた生命はもはや彼のものではなく、対象のものである。(・・・)労働者がみずからの生産物において外化するということは、彼の労働がひとつの対象に、ひとつの外的な現実存在になるというだけではなく、彼の労働が彼の外に、彼から独立したかたちで存在し、彼に対して自立した力となり、彼が対象に付与した生命が彼に対して敵対的かつ疎遠に対立するという意味をもつのである。」(マルクス『経哲草稿』310頁)


フーコーの「権力」「性愛」は、おそらくフーコーに対して敵対的に働いた。
カフカは自らの著作が自分以外の人間まで傷付けることを憂慮し、すべての著作を焼き払うことを遺言した。
熊野で見た石碑にも、自著をこの世から抹消することを遺言した僧の名前があった。(失念しました。お心当たりのある方、ご教示ください。)
私自身、自分自身の言葉に、完膚なきまでに叩きのめされた経験を持っている。


けれどまだ、私は私の書く小説が致命的に私を損なう有様を具体的に想像することができない。
私が暴露することになる現実が、私の社会的立場を危うくする?
ただのフリーターの「社会的立場」って何だ?


あらゆる言説は逆効果を生み悪用される可能性を不可避的に持つ。
だからこそ「知」はその宿り手を選ぶのだろう。
イデオロギーは可視化対象化されたとき崩壊を始める、という言葉はまだ、私にとって「祈り」の言葉でしかない。


「神を見た者は死ぬ。ことばの中でことばに生命を与えたものは息絶える。ことばとはこの死の生命なのだ。それは死をもたらし、死のうちで保たれる生命なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去ったのだ。」


ブランショの言葉はいまだ、「記号化による情報の縮減」という範囲でしか理解できていない。
聖句解釈の袋小路に迷い込んでいなければよいのだが。


今言えることはただ一つ。
私がもしあなたたちの「作品」になるのだとしても、私はあなたたちが生贄の羊になることを認めない。


私は反抗期に反抗できるほど素直な人間ではなかった。