「安全」の代償

衆議院選の開票速報特番を見ていると、「自民党有力議員、まさかの大量落選!」というテロップとともに与謝野馨小池百合子といった現職や元の大臣までもが小選挙区で敗北する映像が次々と流れていた。
「有力」というくらいだから、結局は比例代表制で復活当選するのだろうと思っていたら、案の定ほとんどの議員が議席を確保していた。
しかし比例での復活ならず、議席を失った議員もあらわれた。
その中に一つ、忘れがたい名前があった。
久間章生(「きゅうまふみお」って読むんですね。)氏である。
あの、「原爆投下はしょうがない」の人である。
その発言はよくある「大臣の問題発言」の枠組みに回収され、「許せない」「信じられない」と眦を決したメディアや人々によって久間氏は絨毯爆撃を受けていた。
私ももちろん「軽率な発言だ」と思った一人である。
だが、有名人や公人の発言がその一部を切り取られ、文脈から切り離されて集中攻撃の対象になりがちであることも承知していた。
私はその発言の全容を知りたいと思った。
発言内容はすぐに見つかった
読んでみて、やはり、という思いは強かった。
以下にやや長めに引用する。


「(……)これは話は脱線するが、日本が戦後、ドイツみたいに東西ベルリンみたいに仕切られないで済んだのは、ソ連が侵略しなかったことがある。日ソ不可侵条約(※正しくは日ソ中立条約)があるから侵攻するなんてあり得ないと考え、米国との仲介役まで頼んでいた。これはもう今にしてみれば、後になって後悔してみても遅いわけだから、その当時からソ連は参戦するという着々と準備をしていて、日本からの話を聞かせてくれという依頼に対して「適当に断っておけ」ぐらいで先延ばしをしていた。米国はソ連が参戦してほしくなかった。日本の戦争に勝つのは分かった。日本がしぶといとソ連が出てくる可能性がある。

ソ連が参戦したら、ドイツを占領してベルリンで割ったみたいになりかねないというようなことから、(米国は)日本が負けると分かっていながら敢えて原子爆弾を広島と長崎に落とした。長崎に落とすことによって、本当だったら日本もただちに降参するだろうと、そうしたらソ連の参戦を止めることが出来るというふうにやったんだが、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連満州国に侵略を始める。幸いに北海道は占領されずに済んだが、間違うと北海道はソ連に取られてしまう。

本当に原爆が落とされた長崎は、本当に無傷の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという、そういう思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけないと思った。(……)」


私が久間氏の発言を読み、真っ先に思ったのは「これは『喪』の儀礼だ」ということだった。
原爆投下によって大量の民間人が殺害された。
生き残り、また戦後になって生まれたわたしたちは、この歴史的事件に対して一つの責務を負った。
死者の「死」に「意味」を付与する、というのがその責務の内容である。
彼らはなぜ死ななければいけなかったのか。
彼らはどのように死んだのか。
彼らの死は今生きているわたしたちに何を失わせ、何を残したのか。
わたしたちはそれら一つ一つの与件に対して冷静に考量し、言葉を与え、守り伝える責務を負っている。
久間氏の発言は、その責務の一端を担う性質のものでしかなかった。
その発言がひたすらバッシングされる様を目にしているのは辛かった。
私には、久間氏の発言を非難する言葉が次第に、言葉通りには受け取れなくなっていった。
私にはこんな風に聞こえていたのだ。
「原爆の犠牲者は全員無駄死にした。」
「彼らの死は完全に『無意味』だった。」
「私たちは永遠の『被害者』だ。」
アメリカの虐殺行為を許すな。」
サンフランシスコ講和条約は反故にしろ。」
「あいつらから、死ぬまでむしりとってやれ。」


広島出身の友人に尋ねてみた。
「僕はあの久間さんの発言って、鎮魂の儀式みたいなものだと思ったんだよ。原爆で死んだ人たちのおかげで日本は領土を今以上に奪われないですんだ、あの人たちの死は『無意味』じゃなかったんだ、ってことを言うための。そんなふうには考えられない?ねえ、どうしてもダメなのかな?」
「……うん、ムリ。許せないよ。」
沈痛な面持ちで内面の石盤を見つめてくれた友人を前にして、私の脳裏には「肉の怒り」という言葉が浮かんだ。
「聖地」に生まれ、育ち、原爆関連のものが目の前にあらわれるたびに言われ、自らも口にして刻み込んできた戒律。
「原爆を許すな。」
そのようなものがあることを、私もまた理解しないわけにはいかなかった。


アメリカによる原爆投下を赦すべきか否か。
このような問いの立て方をする限り、私たちはおそらく、永久に未来への一歩を踏み出すことができない。


私たちの社会には、決して原爆を許すことのできない人々が一定数存在する。
原爆によって住処を、職場を、肉親を、友人を失い、その残骸や遺骸を目の当たりにしながらも稀有な遺伝的特性によって奇跡的に生き延びている。
そのような人が、軍隊という上意下達組織の頂点に確かに存在した命令者や実行者、その組織自体やその存在を支えた国家機構といったものに対しての憎悪と復讐の念だけを自らの拠りどころとして今日まで過ごしてきた。
「憎しみは憎しみしか生まない。」
「過去の囚人になってはいけない。」
「顔を上げて、前を向いて。」
言葉は何度でも彼らの耳に届いた。
けれど、理解するわけにはいかなかった。
過去を忘れて、自分だけが幸福になるわけにはいかなかった。
楽しみ、喜び、笑うとき、あの映像は必ず甦った。
それでも彼らは生きつづけねばならなかった。
彼らは、生を渇望し「死にたくない」と言い残して死んでゆく人々を、あまりにも多く見送りすぎていた。


私たちの社会には他方で、「原爆の直接被害者ではないが敗戦国の住民」である人々がいる。
念のために言っておくが、私のような人間のことである。
私たちにとって、原爆は恰好の口実であり続けた。
何の口実か。
それは、「太平洋戦争の終わりは『強者』による『弱者』の一方的殺戮によってもたらされ、『強者』はその後『贖罪』の義務を負った」という(現実とはかけ離れた)物語を信じ込むための口実である。
アメリカを始めとする連合国の戦後処理は、極東軍事裁判を除き、極めて公正なものであった。
戦勝国が敗戦国に賠償金の請求と領土の割譲を要求するのは二十世紀国際秩序の常道である。
だが、第一次大戦後過大な賠償金支払責任によってファシズムを招来したドイツの轍を日本も踏むことを恐れた連合国は、賠償請求金額を引き下げ、日本が戦後国内復興に注ぎ込むための原資を残した。
日本が手放すことになったのも、元々日本の領土ではなかった満州、朝鮮、台湾に限られ、沖縄も1972年には「返還」されている。
日本の高度経済成長の礎は「朝鮮特需」によって築かれ、その後も長らくアメリカは日本にとって最大の購買者であり続けた。
日米安保体制は東西冷戦下における前線基地の確保が主眼にあったとはいえ(またそのことによって日本が攻撃を受けるリスクを多少は引き受けていたとはいえ)、日米の軍事力が非対称的である以上、日本がアメリカの庇護下にあったことは紛れもない事実である。
これらの歴史的事実から、日本がアメリカに「搾取」されていた、と結論付けることは論理的に不可能である。
私たちは、敗戦国としては考えられないほどの恩恵を受けてきた。
にも関わらず、私たちはアメリカに十分な感謝を捧げてはこなかった。
あまつさえ、リーマンショック以降傾き続けるアメリカに対して「いい気味だ」とさえ感じている。
中世日本武士の伝統であった「御恩と奉公」を、私たちはすべて忘れ去ってしまったのだろうか。
そうではないだろう。(武士道流行ってるし。)
ではアメリカの国家戦略、世界戦略に辟易し、これ以上片棒を担がされるのはまっぴらごめんだと思っているのだろうか。
それならば考えられる。
だが、もしそうであったとしても、これまで私がアメリカの凋落を語る言説の前置きに「かつてアメリカからは多大な恩恵を受けたが」という言葉をほとんど聞いたことがなかったのはなぜなのだろうか。
私はこの疑問に対しての、「日本人は『敗戦というトラウマ』を抑圧しているからだ」という回答に同意するものである。
そしてその抑圧に蓋をするための物語として「原爆」は機能してきたと考えている。
私たちはアメリカからどれだけ恩恵を受けてきたのだとしても感謝する必要などない。
なぜなら日本は「世界で唯一の被爆国」なのだから、と。


最初の問いに戻ろう。
アメリカによる原爆投下を赦すべきか否か。
このような問いを立てることができるのは、直接被爆した人々や近い親族を失った人々のみである。
被害を訴える権利や赦す権利は当事者にしかない。
私自身はいかなる意味合いにおいても原爆の被害者であったことはなく、これからも一切そう名乗ることはない。
原爆投下の犠牲になった人々への哀悼の念や、現在も後遺症に苦しむ方々への同情心は持ち合わせている。(たぶん、通常よりも少し多めに。)
ただ、被害者の方々を利用して自らの立場を有利にしようとする行為に対して、節度を保っていたいのである。
アメリカの世界戦略に対してはおそらくこれからも異議を唱えるだろう。
だがそのときは被害者としてではなく、かつてアメリカに恩義を受け、「12歳の子供」と呼ばれながらも成熟を果たした、「対等で誠実な友」としてでありたい。
私はそのように考えている。


日本は戦後、国家を「国民の生命と財産を守る」システムとして再定義した。
しかしどのような規則にも例外はあり、どのような定義にもそこから漏れるものが現れる。
「国民の生命と財産を守る」ためにその生命を投げ出す人もまた国民である。
この「例外」のもたらす矛盾に、「普通の国」であれば、多くの国民が正面から向きあい葛藤するのだろう。
しかしほとんどの日本人は、アメリカの庇護下にあって、その問題に取り組むことを免除されてきた。
自衛隊員の死因の一位は「自殺」である。
日本は、核攻撃されるアメリカを守ることができない。
日本がアメリカの安全を保障したことは一度もない。
その片務的状況にもかかわらず、日本人は日米安保条約を「不平等条約」と呼び、自国の「土地」と「金」だけを惜しむ立場から非難してきた。
おそらく大半の日本人にとって、在日米軍は「占領軍」の延長でしかなく、在日米軍基地は「奪われた領土」でしかないのだろう。
64年間の無戦争状態がもたらしたものは、「平和ボケ」などという生易しいものではない。
それは「私たちの代わりに死んでいったかもしれない人々への想像力」である。
私たちは軍事のコストを外部化してきた。
そしてそのことに対して、「病識」の欠片も持たずに過ごしてきた。
日本の「一国平和主義」はそろそろ限界を迎えるだろう。
2009年9月24日、国連の安全保障理事会は「核なき世界」決議案を採択した。
皆様には申し訳ないのだが、私は「ルールを破るものが勝利するゲーム」がルールに則って進行する可能性はそれほど高くないだろうと思っている。(可能性がゼロだと断言するほど悲観的でもないのだが。)
もしもそのような世界が到来することがあるのだとすればそれは、弛まぬ決意と覚悟を持った個人が、同じ決意と覚悟を持った個人を一人一人生み出していく地道な過程の先にしかないだろう。


政治を語る上で、軍事は避けて通れぬ道である。
どちらも考えることを怠ってきたこの身には、少々荷が勝ちすぎている。
だが、戦場に立つ可能性の残る人間にしか、語れぬ言葉というものがある。
そのことに気付けただけでも、今はよしとしなければならない。
31という年齢は、生死を語るには幼く、社会を知ろうとするには年老いているようにも思うのだけれど。