井筒俊彦先生にダメ出しを食らう

 イスラームの神アッラーは、まず何よりも生ける神、生きた人格的神として自らを現わします。まさに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、人間がこれと我・汝の人格的関係に入りうる神でありまして、哲学者の神ではありません。古代インドの梵=ブラフマン、のような存在の非人格的、純形而上的根源としての絶対的実在とはぜんぜん違ったものであります。むしろキリスト教ユダヤ教の神と同じ人格神です。



──────『イスラーム文化 その根柢にあるもの』井筒俊彦著 岩波文庫 P61


『困難な自由』があんまり手強くてほとんどわからなかったので、とにかく一度通読してみよう、この身体に一度レヴィナスの言葉を通してみて、どこかで流れが変わるかも知れないし変わらないかも知れない、という感じで一週間を過ごしたのですが、やっぱりほとんど理解できていないみたいです。
この本を読んだのってたしか2年くらい前なのですが、おんなじところで「あれ、そーなの?」ってなってるし。
しっかしもう人類の半分は「アブラハムの宗教」(ユダヤ教キリスト教イスラム教)の信徒だっていうのに、僕がいまだに神を満足に定義すらできないって驚異的ですよね。
結局そこなんでしょ、あなたたちが言葉を増やそうとする目的は?
なんて下司の勘繰りもしたくなるってもんです。
ああ、酔っぱらうと口が悪いですね。
ふふ、逃げ口上です。
一応僕が神の属性だと考えていたことを提示しておきましょう。
・無限
・絶対
・普遍
・万能
・無謬
このくらいですね。
内田先生が繰り返し書かれていた「操作不可能」という定義は(つまり「祈り」に応えず「救済」しないということですね)、僕には初耳でした。
そして神ではない人間の定義はこの神の属性の裏返しとしてある、と。
有限であるがゆえにいずれ名と身体を失うということ。
絶対ではないがゆえにパラダイムに囚われ相対的真理を得ることしかできないということ。
普遍ではないために土地に縛られるということ。
万能ではないために「できないこと」を抱えて生きなければいけないということ。
有謬の存在として間違えることを常態ととらえること。
それが人間だ。
しかも強制されることを苦痛としか感じない人間のために、「操作」されることを、つまり「命令」を受けて行動することを「人間性」の枠内に繰りこもうとしている。
信じてくれれば若者は労働するようになるでしょう。
でも、きっともう何も信じてない。
今の若い人たちはね。
井筒先生のこの本には、もう一つ面白いことが書いてあります。
イスラームアッラーのみを唯一無二のものとする、そんな内容です。
つまり、僕のリストには属性が二つ欠けていた。
・操作不可能
・唯一無二
この二つが。


このあいだ書き抜きはしませんでしたけど、他にも引っかかっていたクンデラの言葉として「神の笑いのこだまとしての小説」ってのがあったんですよね。
小説ってのは、神ならぬものが神を目指す運動なのかもしれません。


けれどやはり僕は思うのです。
有限で相対的で地域的で、有能ではあっても万能でなく、間違えてばかりで人の言うことばかり聞いていて、ほかの人でもできるような仕事を一生懸命やるような、そんな人間ばかりでも。
意外と人間は悪いことばかりはしないものだし、世の中けっこううまくいくもんだと。
大人が必死になって叱りつけなければ罰もろくろくないような世の中で、それでも人間は倫理的に生きていたりするし、幸福になっていたりする。
そこがいいんですよね。
内田先生はユダヤ教徒なのかしら、なんてことをちょっと真剣に考えたりもしたんですけど、今はなんだか違う気がしています。