コーエン兄弟/ノーカントリー

アントン・シガー(ハビエル・バルデム)は神ではない。
彼は有限性を逃れることのない物理的存在である。
食べなければならず、飲まなければならない。
彼の身体は人間の道具によって傷つき、人間の道具によって癒される。
彼は標的を探すために、自らの足で歩く。車を運転する。探知機を使う。電話を掛ける。
彼の銃弾は標的を外れる。
あらゆる特徴が、彼は人間だと告げている。
にも関わらず、アントン・シガーは特別な人間であろうとすることをやめない。
彼が標的を決して逃さないのは、彼が行動力に優れているからでも、知性に秀でているからでも、天才的な射撃能力を持っているからでもない。
目的を達するまでやめないからだ。
そして彼が必ず目的を完遂するのは、それが彼にとっての「仕事」だからである。
彼はある「事」に「仕えて」いる。
「事」とはおそらく、私たちが「運命」と呼ぶところのものである。


カーソン・ウェルズ(ウディ・ハレルソン)の助言に従って、彼の行動規範(プリンシプル)を解読してみよう。
「彼には行動規範があった 金や麻薬を超越してるんだ」
そう、確かにシガーには麻薬の取引現場から奪われた200万ドルや、現場に残された麻薬を奪って私腹を肥やす機会があった。
200万ドルはウェルズから持ちかけられた取引に応じていれば手にすることが出来たし、麻薬は現場に同行した2人の男を射殺した時点で持ち逃げが可能であった。
だが、シガーはそれをしない。
金をただ取り戻すことも、麻薬を手に入れて一財産築き上げることも、シガーの眼中にない。
シガーにとって価値があるのは、自分に課された使命を果たすことだけである。
その使命とは「取引現場から金をちょろまかした野郎から金を取り戻す」ことである。
使命は「文字通り」果たさねばならない。
このあたりの偏執振りが、おそらくは余人の理解を拒むのであろう。
シガーは組織にも、命令者にも忠誠を抱いていない。
それは「命令者」を射殺する場面からも明らかである。
彼の仕事は「儀式」に似ている。
己の意思を介在させず、命令を遵守することだけが、彼にとっての重大事なのである。
気取った言い方を許していただけるのであれば、私は彼の在り様をこう表現してみたい。
アントン・シガーは、「ロゴス」に従うことだけが、自らを「運命」の被制者ではなく、「運命」の執行者たらしめる唯一の方法であることを知っていたのだ。
それゆえに、アントン・シガーは「モダニスト」に似るのである。


モダニズム」あるいは近代主義とは、17世紀フランスに活躍した哲学者、ルネ・デカルトによってその幕を切って落とされた思想的潮流の呼び名である。
デカルトの有名な言葉は皆さんご存知だろう。
「我思うゆえに我あり」である。
ラテン語で言うところのコギト・エルゴ・スムである。
デカルトはあらゆる事柄を疑ってみせた。
方法的懐疑は、何ものにも確固たる根拠を認めなかった。
だが、デカルトが唯一疑うことのできなかったものがある。
それは「疑っているこの私」である。
私の五感に訴えるあらゆるものを疑い、その根拠が不確かであることを論うことはできても、疑い論う私の存在だけは認めざるを得ない。
そう思考することで、デカルトは哲学の第一原理を確立したのである。
そして、「この私」を人々は「主体」と呼び習わしてきた。
これがデカルトを起源とする近代という物語の概要である。
だが、ここで真に重要であったのは、近代という時代区分の始まりでもなければ「主体の発見」でもない。
そこにはデカルト以前に必出であったある言葉が欠けていた。
方法的懐疑が真っ先に向かったのは「神」である。
「神」の存在に根拠を認めず、「神」抜きで人間の存在を基礎付けたこと。
それこそが近代主義の精髄であり、デカルトが人間精神に果たした最大の貢献だったのである。


神とは「万能性」および「無謬性」の象徴であり、それゆえに「絶対性」を導く存在である。
戒律にあっては法源となって人間の世界に秩序をもたらし、探求にあっては「理」を司り因果を主宰する。
天地を創造し、秩序を決定し、すべてを知り、すべての出来事を司る。
そのような存在を確かに感じ取り、言葉を受け取って人々に伝えた人たちがいた。
そして、彼らの言葉を受け取った文化圏は強大な勢力を築いた。
だがおそらく、デカルトは我慢ならなかったのだろう。
聖職者たちが奢侈と権力を欲しいままにすることに。
人々が「よきもの」のすべてを神の恩寵に帰し、「悪しきもの」のすべてを試練として受け容れてしまうことに。
「理解不能なこと」をすべて「神の思し召し」だと思ってしまうことに。
人間世界における人間の不在に。
だから、神抜きの主体を宣言した。
では、デカルトの宣言以降、どのような地殻変動が起こっただろう。
啓蒙思想、科学的探究の進展、革命思想といった西洋の精神的果実のほとんどはデカルト以降の流れの中に位置付けられる。
しかし知識階級が「絶対性」の桎梏を逃れることはなく、大衆がキリスト教的世界観から逃れることはできなかった。
そのために、フリードリヒ・ニーチェは200年以上経って後に改めて「神の死」を宣言しなければならなかった。
ニヒリズムもまた「絶対性」の亜種である。
「すべては無意味である」という宣言は宣言自体の無効性を同時に宣言していることに自覚的であらねばならない。


モダニストとは畢竟「神の代替物を模索するもの」のことである。
二度の大戦と数千万人の死者が、思潮をモダンからポストモダンへと移行させた。
ノーカントリー』の舞台は1980年のアメリカである。
だが、シガーはいかなる意味合いにおいてもポストモダニストではない。
プリンシプルを持つ、という一点ですでに彼が絶対性に依拠する人間であることは明らかだが、その他にもいくつかの兆候が挙げられる。
一つは、彼が人間を二種類に分けていることである。
シガーは彼を含む「人間」に含まれぬものを「家畜」と捉えている。
それは彼が屠殺装置を真似て、圧縮空気を殺傷兵器として(ボルトを弾丸として使用しているかどうかはわからないが)使用していることに表れている通りだ。
シガーの人格造形はその点で、ニーチェが人間を「貴族」と「畜群」の二種類に分けたことを想起させる。
劇中に、彼が等格者として扱う人間は一人しか出てこない。
それはモスが妻と住んでいたトレーラーハウスを管理していた老女である。
シガーは老女にモスの行方を尋ねる。
老女は答える。
「居住者の情報は教えられないんです。」
このやり取りは二度繰り返される。
シガーはこの場面で、ほかの人間の前では決して見せることのなかった、怯むような表情を一瞬見せる。
彼は等格者を発見したのである。
老女はルールを守った。
それはつまり、彼女を"rule"(支配)するものに対しての忠誠を守ったということだ。
シガーは老女に、「ロゴス」に従う己の似姿を見たのである。


ガソリンスタンド兼雑貨屋を営む老人と会話する場面は、老女との場面と好対照を成している。
シガーは彼の世界観を露呈するいくつかの台詞を口にする。
まずは主人の「どちらから?」という質問に対しての答えだ。
「どこから来たかお前に関係あるか?」
妻との馴れ初めを語る主人に対しては、こう毒づく。
「財産目当ての結婚だ。」
「俺が何を言おうとそれが事実だろうが。」
シガーの怒りが頂点に達するのは、主人が「普段よりも早く」店仕舞いをすると呟くときである。
シガーはすぐさま主人を殺す算段を始めるが、主人にも生きながらえるチャンスを与える。
その方法はコイントスである。
シガーの殺人原理は基本的にシンプルである。
依頼を受けると殺す。
仕事の邪魔になりそうな人間を殺す。
それ以外に殺すときはコイントスをする。
「先に言え。お前が言うんだ。俺が言ったらフェアじゃない。」
なぜフェアではないのか。
彼は指の腹でコインの模様が読めるからか。
それとも、「見える」からか。(シガーが暗闇に紛れて見えるはずのなかった「カラス」を撃つ、その後の場面は暗示的である。)
「お前はずっと賭け続けてきた。」
「運命」の被制者としてあるということは、シガーにとって「賭博」以外のなにものでもない。
コインをカウンターの上で押さえたまま、コールをためらう主人にシガーは畳み掛ける。
お前がここまで生き延びてこられたのは「偶然」に過ぎないのだと。
「1958年に発行されて22年間旅をしてきた。それがいまここにある。」
シガーのポケットに入っていたのはすべて1958年発行のコインだったのだろうか。
朝鮮戦争(1950−1953)とベトナム戦争(1960−1975)の合間に位置する1958年という年が何を意味しているのか。
あるいはベトナム戦争開戦を決定付ける何かがその年に起こったのか、それはわからない(シガーの生年であるようには思われない)。
今はシガーの世界観だけを問題にしよう。
怒りは人を知る上での重要な手がかりになる。
シガーの怒りの目盛りを押し上げるのは、主人の三つの言葉である。
・「どちらからいらしたんですか?」
・「この店は、妻の父親の持ち物だったんです。」
・「今日はもう店仕舞いにします。」
これらの言葉に反応するシガーに内在すると思われるタブーは二つ。
人間観が一つある。
・「神」の因って来たるところを尋ねてはならない。
・「人間(=家畜)」は金銭のみを目的に行動する。
・日々の営みを疎かにしてはならない。
私がこれらのタブーから連想するのはカソリックだが、シガーが隣人を愛している素振りは見られない。


物語の終盤、シガーは交通事故に遭遇する。
青信号の交差点を車で通行中の事故だ。
その直前に、シガーは禁則を一つ犯している。
私がそれを「原因」と捉え、事故を「結果」として捉えるのは、この『ノーカントリー』という映画の原作になった〝No Country For Old Men”という小説が、コーマック・マッカーシーという人間の手になる書物だからだ。
名越康文氏原作のマンガ『ホムンクルス』が教える通り「人間の病は同じ病を病む人間だけが発見する」のであれば、私がマッカーシーの「メッセージ」を読み取ることができるのは、私がマッカーシーと同じ種類の病に罹患しているからなのだろう。


マッカーシーは言う。


生きるということは、この「運命」/「偶然」/「不条理」の支配する世界を通り過ぎるということだ。
「運命」/「偶然」/「不条理」の側に立つ人間は生き延びる。
「運命」/「偶然」/「不条理」に抗う人間は息絶える。
抗う人間の持つ手段は「自由意志」のみである。
そして抗う人間は必ず「運命」に押し潰される。
けれど「運命」の執行者たらんとする人間(「不条理」そのものであるような人間)が多勢を占める社会は、もはや「条理」を重んじる老人の生きる場所ではない。


マッカーシーもまた、小説の王道を行く者の一人である、ということなのだろう。


アントン・シガーがなぜ今あるアントン・シガーになったのか。
劇中でその理由は明かされていない。
だが、映画全体を暗く濃く覆う「ベトナム」の影は、シガーがかつて軍人であったことを匂わせている。
おそらくは「戦場」ではなく「軍隊」で。
シガーは人間から機械になった。


黒澤明の1945年の作品に『虎の尾を踏む男達』がある。
終戦直前に(つまりは戦時中に)企画された映画だが、その内容には決死の覚悟が横溢している。(この作品がGHQの検閲によって上映禁止されたのは、皮肉としか言いようがない。)
歌舞伎の『勧進帳』を題材にした作品である。
頼朝の追手を逃れて奥州平泉へと落ちのびようとする義経一行を、安宅の関と関守・富樫左衛門が阻む。
しかし弁慶の固い忠誠心と機転が義経の逃避行を成功させる。
そのような物語である。
Wikipediaから引用する。


初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後にはこれが、弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思い騙された振りをする好漢として演じられるようになった。


黒澤もまた、弁慶でも義経でもなく、富樫を描いた。
富樫は、義経一行をどこまでも追及しようとする部下をむしろ押しとどめ、けれど命令に忠実な一人の関守であり続けた。
面従腹背せよ」と黒澤は訴えた。
自身はいま戦場になく、最も呼びかけたい相手に届くかどうかもわからない状況で企画されたその映画に込められたものは、おそらく「メッセージ」ではなく、「祈り」や「懇願」ですらあっただろう。
生き延びてくれ。
だが、生き延びるためには殺すこともやむなしとは思わないでくれ。
限界状況の中で絞り出された黒澤明のこの悲痛な叫びを、私はコーマック・マッカーシーコーエン兄弟が描き出したむき出しの現実に添えて差し出したいと思う。