無力な同伴者

ドストエフスキー卒業論文を執筆することに決めたのは、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』と村上春樹の短編集(たしか)の両方に、たまたま「ドストエフスキー」という名前を発見したのが理由だった。
「おお、このドストエフスキーというのは、なんだかすごいひとに違いない。どうせいつかは越えねばならぬ山脈ならば、この卒論という絶好の機会に踏破してしまおう。」
私は昔っから「ご縁」とか「シンクロニシティ」に弱い質なのである。
けれど「いつかは越えねばならぬ山脈」としてドストエフスキーを一通り読むことが出来たのは幸運だった、と今では思っている。
何しろ「いつかは……」と思いながら超えずにいる山脈というのは本当に多い。
たとえば、シェークスピアは一冊も読んだことがない。
ロミオとジュリエット』も『マクベス』も『リチャード三世』も『ハムレット』も読んだことがない。(『ベニスの商人』でシャイロックが借金と同量の「肉」を要求するのとか、『ハムレット』でオフィーリアが川を流れていく(ジャン・エヴァレット・ミレーの絵のイメージで)のを知っているのは、単純にそこに言及するひとが多いからである。)
ダンテの『神曲』も「いつかは」本である。
ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』も同様。
ユゴーバルザック(『谷間の百合』をほんの少しだけ読んだな……)、ジョルジュ・サンド(『愛の妖精』以外)、リラダン、ホフマン、ツヴァイク千夜一夜物語の続き、マーク・トゥエインガルシア・マルケス(『エレンディラ』『予告された殺人の記録』以外)、アレホ・カルペンティエール、どれもこれも読んでないのである。
日本文学の読書に関しての惨状は、正直ここでは申し上げにくい(書いちゃうけど)。
漱石と芥川はまあ読んだ。
大江健三郎村上春樹高橋源一郎もまあまあ読んだ。
太宰は『人間失格』と『トカトントン』くらい。
川端は『雪国』だけ。
谷崎は短編集を一冊のみ。
鴎外は教科書で読んだくらい。
三島は『仮面の告白』と『金閣寺』だけ。
きりがないのでそろそろやめておくけれど、その他の「名作」と呼ばれ「必読」だと私自身が思っている作品のほとんどを、私は読んでこなかった。
と書きながらも、別に反省をしているわけではなく、ちょっと不思議に思っているのである。
こんな有様にも関わらず、なぜ私は自分自身を「受肉した文学」だと思っているのだろう、とか、なぜ私は現代文学の状況に対して「私が書かなかったばっかりに、こんなことになってしまった」と思っているのだろう、とか。
少しだけ言い訳をさせてもらえば、私は現代文学というものはすべからくそれまでの文学作品を反映させているものだと思っていたし、ある時期から、人の書いたものを読むよりも自分が自分の頭の中に書き付ける言葉の方が刺激的だと感じるようになっていた、ということになる。
そのような意味で、小説ではないのだが、黒澤明の『七人の侍』はまさに衝撃だった。
邦画って、一昔前はこんなに面白かったんじゃないか。
今の邦画はいったいどうしてこんなことになっちまったんだ?
私は『七人の侍』を夢中で観ながら、頭の片隅でそんなことばかり考えていた。
これでは、「名作」が現代に継承されていない可能性は十分にあるということになってしまう。
そうして密かに、自分自身の眼で古典を読み直すそう、と思っていまだ果たさずにいた。
それどころか「読むべき本」は増える一方で、新たな読書の方法論を開拓せねばならないと思っていたのである。
お師匠様はまことに偉大である。
こんなにも愚かな私に救いの手を差し伸べて下さる、よよよ……と、こういう話をしようと書き始めたわけではなかった。


ドストエフスキーの『白痴』の話をしようとしている。
私は『白痴』を読んだとき、ムイシュキン公爵が「白痴」と呼ばれる理由がまったく理解できなかった。
確かに精神病院帰りで最後にまた発狂してしまうけれど、ムイシュキンはけっこう普通の人だと感じたのである。
いや、むしろ普通の人よりちょっと賢い。
それなのに「白痴」だなんてひどいじゃないか、と思っていたのだ。
そのムイシュキンが「完全に美しい人間」を書こうとする意図の下に造形された人物であったことを、ドストエフスキーは姪や友人に宛てた手紙の中で告白している。
ドストエフスキーがキリストを参考にしたことは間違いない。
だがそのムイシュキンは、物語の中で一人たりとも救うことがないのである。
私はその点に疑問を感じ、また同様の疑問を感じた批評家の著作から引用しながらドストエフスキーの「失敗」について書いた。
卒論の該当箇所には、主査の井桁先生の短いコメントが書き込まれている。
「救わない
無力なイエス
イザヤ書 54」


旧約聖書から抜粋しよう。


「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ。
喜びの歌声をあげて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、
夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
と主は仰せられる。

「あなたの天幕の場所を広げ、
あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
あなたは右と左にふえ広がり、
あなたの子孫は、国々を所有し、
荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。
恐れるな。あなたは恥を見ない。
恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。
あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、
やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
あなたの夫はあなたを造った者、
その名は万軍の主。
あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、
全地の神と呼ばれている。
主は、あなたを、
夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、
若い時の妻をどうして見捨てられようか。」
とあなたの神は仰せられる。

「わたしはほんのしばらくの間、
あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、ほんのしばらく、
わたしの顔をあなたから隠したが、
永遠に変わらぬ愛をもって、
あなたをあわれむ。」と
あなたを贖う主は仰せられる。

「このことは、わたしにとっては、
ノアの日のようだ。
わたしは、ノアの洪水を
もう地上に送らないと誓ったが、
そのように、あなたを怒らず、
あなたを責めないとわたしは誓う。
たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」と
あなたをあわれむ主は仰せられる。

「苦しめられて、もてあそばれて、
慰められなかった女よ。
見よ。わたしはあなたの石を
アンチモニーでおおい、
サファイヤであなたの基を定め、
あなたの塔をルビーにし、
あなたの門を紅玉にし、
あなたの境をすべて宝石にする。
あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、
あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。
あなたは義によって堅く立ち、
しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。
恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。
見よ。攻め寄せる者があっても、
それはわたしから出た者ではない。
あなたを攻める者は、あなたによって倒される。
見よ。
炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を
創造したのはわたしである。
それをこわしてしまう破壊者を
創造したのもわたしである。
あなたを攻めるために作られる武器は、
どれも役に立たなくなる。
また、さばきの時、
あなたを責めたてるどんな舌でも、
あなたはそれを罪に定める。
これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、
わたしから受ける彼らの義である。
──主の御告げ。──」


どの章句が無力なイエス像を予告しているのかはっきりしないので、すべて書き出してみた。
関係がありそうだと感じられるのは、以下の部分である。
・「あなたを攻める者は、あなたによって倒される。」
・「また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。」
攻めてくる者を倒し責めてくる舌を罪と定めるのは「主」ではなく「あなた」なのである。
神自身が、もうノアの洪水みたいなのはよすから、自分で自分を救うんだぜ、と人間に(もっぱら女性に向かって言ってるみたいですけど)向かって言っているのである。
このように言う神ならば、その子を地上に遣わすとき、直接世界を救うものではなく、人間の代わりに原罪を贖うものとして(人間を原罪から解き放つものとして)、つまり人間をのびのびとした自ら救う能力を備えた存在へと変えるものとして登場させ、人間自身に世界を救わせようとしていたと解釈することは十分に可能である。


最後に、井桁先生からのコメントを再び引こう。
「『白痴』の読みについては異論なしとしない。小林秀雄江川卓も、終幕を失敗とし、宗教性があらわれてこない、とする。しかし遠藤周作の無力なイエス論『深い河』はこの小説の構想、イザヤ書の読みとの関連を示してくれている。」


『深い河』の主人公・沼田は、重度の病に侵されている。
手術をしなければ遠からず死ぬ。
だが手術そのものの成功率もよくて五分、という状況に置かれている。
沼田は妻に己の苦しみを打ち明けることができない。
その時、沼田の苦悩を聞いたのは「九官鳥」であった。
沼田は後悔や苦悩を九官鳥に告げる。
九官鳥は「は・は・は」と、嘲るように励ますように笑う。
手術は成功し、沼田は麻酔から覚めて真っ先に九官鳥のことを妻に尋ねる。
九官鳥は死んでいた。
沼田は、自分はアイツに救われたのだ、アイツが俺の代わりに死んでくれたのだ、と強く感じる。


ムイシュキンもまた、九官鳥のように救ったのだろうか?
私たちもまた、九官鳥のように救うのだろうか?