無名草子七 源氏物語 ニ ふしぶしの論(原文) 

ニ ふしぶしの論


 又例の人「人の有樣はおろおろよく聞き侍りぬ。あはれにもめでたくも、心にしみて覺えさせ給ふらむふしぶし仰せられよ。」といへば、「いとうるさき慾深さかな。」なんど笑ふ笑ふ、「あはれなることは桐壺の更衣の失せし程、帝の歎かせ給ふ程の事。『長恨歌の女も思ひし限あれば、筆及ばざりけん。尾花の風に靡きたるよりもなよびかに、撫子の露に濡れたるよりも、らうたく懐かしかりし御樣は、花鳥の色にも音にもよそふべきかたぞなき。
  尋ね行く幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
とて、燈火(ともしび)をかゝげつくして、眠る事なく眺めおはします。』などあるに何事も殘りのの六十巻はみな推し量られ侍りぬ。
 又夕顔の失せの程の事も。『空も打ち曇りて風冷(ひやゝ)かなるに、いたく眺めて、
  見し人の煙を雲と眺むれば夕の空もむつまじきかな
と詠みて、『まさに長き夜』など打誦(ず)し給ふところ。葵の上の失せの程の事もあはれなり。御わざの夜、父大臣の闇に迷ひ給へるなど、ことわりにあはれなり。にばめる御衣(ぞ)を奉り換ふとて、『我先立たましかば、深くそめ給はまし。』など思して、
  限りあればうす墨衣殘けれど涙ぞ袖を淵となしける
と詠み給ふ所。又風荒らかに吹き、時雨うちしける程に、涙も爭う心地して、『雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず。』とひとりごち給ふに、頭の中將參りて
  見し人の雨となりにし雲ゐさへいとゞ時雨にかきくらすかな
とある所。又らうたくし給ふ童の、かざみの裝束なべてよりも濃くて、いみじくくんじ濕りて候ふを、いとあはれに思して、とりわきらうたくし給ひしかば、『われをさなん思ふべき。』と慰め給へば、いみじく泣きて、御前に候ふ所などいとあはれなり。又物忌果てて君も出で給ひ、日ごろさぶらひつる女房ども、おのおのあからさまにちるとて、おのがじし別れ惜しむ所いたくあはれなり。又かき給へる御手習ども大臣見て泣き給ひなどするも、すべてあはれなる巻なり。
 須磨の別れの程の事も。葵の上の古里にまかり申しにおはして、
  鳥部山燃えし煙にまがふやと蜑(あま)の鹽(しほ)やくうらみにぞゆく
とある所。又鏡台に御鬢掻き給ふとて見給へば、いと面痩せたる影の我ながら清らかなるもあはれに覺えて、『此の影のやうにや痩せ侍る。』とて、
  身はかくてさすらへぬとも君があたりさらぬ鏡の影ははなれじ
と聞え給へば、紫の上涙をひとめうけて見おこせて、
  別るとも影だに留る物ならば鏡を見ても慰みなまし
とある所。又賀茂の下(しも)の御社の程にて、藭にまかり申し給ふとて、
  うき世をば今ぞ別るゝとゞまらん名をばたゞすの藭に任せて
とある所。又出で給ふ曉、紫の上
  惜しからぬ命にかへて目のまへの別れをしばしとゞめてしがな
と宣へるこそいと人わろけれ。なにの人數なるまじき花散里だに、
  月かげの宿れる袖はせばくともとめても見ばやあかぬひかりを
とこそ聞え給ふめれ。又浦におはしつきて、渚に寄る浪のかへるを見給ひて、『うらやまし。』とうち誦(ずん)じて、『眺むる空は同じ雲ゐに。』などある所。又『心づくしの秋風に海は少し遠けれど、行平のそちの關〔吹き〕越ゆると〔いひけん〕浦浪いと近く聞えて、
  戀ひわびてなくねにまがふ浦浪は思ふかたより風やふくらん』
と詠み給ふ。八月十五夜の殿上の遊戀しくて、ところどころ眺め給ふらむかしと思ひやり給ふにも、月の顔のみまぼられて、『二千里の外古人の心』と誦じ給へる所。又、何殿の櫻は盛りになりぬらんかし、一歳(ひととせ)の花の宴に院の上の御氣色(けしき)うちの上など思ひ出で給ひて、
  いつとなく大宮人の戀しきに櫻かざししけふは來にけり
と詠み給ふ所。又大内山のおはして、互(かたみ)に名殘惜しみ、歌よみ文作り交(かは)し給ふ程の事どもなど。明石にて二條院へ常よりも御文こまやかにて、
  しほしほとまづぞ泣かるゝかりそめにみるめは蜑のすさみなれども
とある御返に、
  うらなくも褚みけるかな契りしを松より浪はこえじものぞと
〔と〕あるこそいとあはれなれ。
 又柏木の右衛門督の失せの程の事どもこそあはれに侍れ。女三の宮に御文奉るとて、手もわなゝけば、思ふ事も皆書きさして、
  今はとて燃えん煙もむすぼほれ絶えぬおもひのなほや殘らむ
と詠みて、『あはれとだに宣はせよ。心のどめて人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもし侍らん。』とある御返に、
  たち添ひて消えやしなまし憂きことを思ひみだるゝ煙くらべに
とて、『後るべくやは。』とある、女宮ぞにくき。又父大臣のさまざまの事ども宣ひつゞけて、空を仰ぎて眺め給ふに、夕の雲のけしき鈍色(にびいろ)に霞みて、花散りたる梢ども、今日ぞ目とまり給ふ。
  この下のしづくにぬれてさかさまに霞の衣きたる春かな
とある所いとあはれなり。
 紫の上の失せの程の事ども申すもおろかなり。亡くなり果てて臥し給へるを、まめ人のほのかに見て、
  いにしへの秋のゆふべの戀しきにいまはと見えしあけぐれの夢
野分のまぎれに見奉り給へりし事を思し出でたるなるべし。『幻』に女房の聲にて『いみじく積りたる雪かな。』といふを聞き給ふにも、かの心苦しかりし雪の夜の事たゞ今の心地して、くやしく悲しきにも、
  うき世にはゆき消えなんと思へども思ひのほかにわれぞほどふる
と詠み給ふ所。又御しつらひなどもおのづから寂しくことそぎて、見え渡さるゝも心細くて、
  今はとてあらしやはてん亡き人の心とゞめし春の垣根を
とある所。又御文ども破(や)り給ひて、經にすかんとて、
  かきつめて見るも悲しき藻汐草同じ雲ゐの煙ともなれ
とある所も、すべて『幻』はさながらあはれに侍る。
 又宇治の姉宮の失せこそあはれに悲しけれな。薫大將、限りあれば我が御衣の色は變らぬに、かの御方の心寄せわきたりし人々、いと黒く着換えたるを見て、
  紅に落つる涙もかひなきはかたみの色を染めぬなりけり
 むかひの寺の鐘の聲、枕を欹(そばだ)てて、『今日も暮れぬ。』とあはれに思しつゞけて、『生き出でてものし給はましかば。』などある所。又遣水のほとりの岩にしりかけて、とみにも立ち給はで、
  絶え果てぬ清水になどなきか人の面影をだにとゞめざりけむ
と宣ふこそいみじくあはれに羨しけれ。かゝる人もちてこそ死なむ命もいみじからめと覺ゆ。
 又いまじき事。六條わたりの御忍び歩きの曉、出で給ふ見送り聞えに、中將の君まゐるを、すみの間の勾欄のもとに、しばしひきすゑ給ひて、
 『咲く花にうつるにふ名はつゝめどもをらで過ぎうきけさの朝がほ
いかゞはすべき。』とて、手を捉え給へるに、
  朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る
おほやけごとに聞えなしたる程、いみじく覺ゆ。又忍びて通ひ給ふ所、門(かど)の前を渡るとて、聲ある隨身して、
  朝ぼらけ霧たつ空のまよひにも過ぎ憂かりけるいもが門かな
と、ニ聲ばかり歌はせ給へるに、よしある下仕(しもづかへ)を出して、
  立ちどまり霧のまがきの過ぎ憂くば草の戸ざしにさはりしもせじ
 又『花の宴』こそいみじけれ。『朧月夜にしく物ぞなき。』などいふよりうち初めて、その程のことどもいといみじきに、又院の帝山に籠らせ給ひて後、なほ立ちかへるいとめづらしきに、心あわたゞしくて、
  沈みしも忘れぬものを懲りずまに身もなげつべき宿の藤波
などあるもいといみじく覺ゆ。
 又齋宮の御下りの程どもこそ何となく藭さびいみじけれ。
 『曉のわかれはいつも露けきをこは世にしらね秋の空かな
松蟲のなき交したる、折知り顔なり。』などある程も。又『伊勢まで誰か。』などあるもいみじ。
 又流され給ふ程のことども返す返すいみじけれども、さきにおろおろ申し侍りぬれば。
 又常陸の宮の御もとを通り給ふとて、『見し心地する木立かな。』と思し出でて、御車より下り給ふに、惟光さきにわけさせ給ひぬ。『蓬の露けく侍る。』と聞ゆる、思し侘びて、
  尋ねてもわれこそ訪はめ道もなくふかきよもぎのもとの心を
とてなほ入〔り〕給へば、惟光先に立ちて蓬の露うち拂ひて入れ奉る程、申しても申してもいみじともおろかなり。
 源氏、野分の朝、まめ人の大將〔と〕御かたがたの有樣見歩(あり)きたるこそいみじけれ。なかにも中宮の御方いとをかし。姫君の御方にて、御硯・紙など乞ひ出でて、文かき給ふ程もいといみじ。御硯とりおろしてかき給ふ程こそ人わろけれど、さまであるべきことかはと思す。御心猛かりけむ、
  風さわぎむら雲迷ふ夕にも忘るゝ間なく忘られぬ君
とて、刈萱(かるかや)につけつて打ちさゞめきてやり給ふなどもいみじ。宇治のゆかりにも、いみじき所々多く侍れど、さのみはうるさし。
 いとほしきこと。『須磨』の御出で立ちの程の紫の上。『乙女』の巻に、六位すくせをはしたなめられて、『雲ゐの雁もわがごとや。』とひとりごち給ふを、まめ人たち聞きて『侍從の君や候ふ。これあけ給へ。』とある程こそいとほしけれ。『若菜』にて紫の上方敷く袖もしみ氷り臥し煩ひ給へる曉お〔は〕してたゝき給ふに、空寢して人あけぬ折の事。宇治の中の君薫大將を始めて〔見、大將〕
  いたづらにわけつる道の露しげみ昔覺ゆる秋の空かな
といひやる朝(あした)に、兵部卿の宮渡り給ひて、御匂の染(し)めるを咎め給ひて、ともかくも答(いら)へぬさへ心やましくて、
  また人もなれける袖のうつり香を我が身にしめて恨みつるかな
と宣へば、女君
  見なれぬる中の衣とたのめしをかばかりにてやかけはなれなむ
とて打泣きたる程、返す返すいとほしけれ。
 心やましき事。紫の上須磨へ具せられぬ事だにあるに、明石の君まうけて、問はず語りしおこする事。『浦よりをちに漕ぐ舟の』と厭はれて、文の上包ばかり見せたる事。須磨の繪二巻日ごろ秘(かく)して、繪合の折とり出したる事。
 『ひとりゐてながめしよりは蜑のすむかたをかきてぞ見るべかりける
とて、覺束なさは慰みなましものを。』などある所よ。これはいとほしきことにも入れつべし。女三の宮まうけて、紫の上にもの思はせたる事。正月一日の日、御方々へまゐり歩(あり)きて、いつしか御騷がれもやと、憚りながら、明石の御方に泊りたる事。大内山の大臣と、源氏〔の〕院との御仲心よからずなりたる事。玉鬘の君の髯黒の大將の北の方になりたる事。『夕霧』の御息所失せ給はんとての折、
  女郎花しをるゝ野邊をいづことて一夜ばかりの宿を借りけん
と書きたる文、六位すくせの上とり隱して、いつしか返事(かへりごと)いは〔せ〕ぬ事。まめ人の大將落葉の宮むかへて、もとの上竝べもちたる事。
 あさましき事。夕顏のこだまにとられたる事。朧月夜(おぼろづくよ)の内侍のもとに源氏の夕立の夜更かして、父大臣に見付けられたる事。女三の宮の右衛門督の文源氏に見えたる事。手習の君の失せたる事。ひたぶるに身をなげたらばよしや、ものにとられて初荑詣の人に見つけられたる程などこそいとむくつけけれ。」などいひて、「本に向ひてこそいみじき事もあはれなる事も覺ゆれ。諳にはいと聞えにくゝこそ侍れ。今のどかに讀みて聞かせ奉らん。これはたゞ片端ばかりなれば、いとなかなかに思されぬべし。」などいふなれば、