初投稿と「投射」

久々のブログなので若干緊張気味である。
あまり放置しているとハードルが上がってよろしくない。
ということで、いったい何度目になるかわからないが、「更新頻度を上げます」宣言を(小さな声で)しておくことにする。
投稿した小説を落選するたびにアップするブログにしてしまうと、得体の知れない怨念の発生源にでもなりそうな懸念もある。
そう、先日小説を初投稿したのであった。
まずは備忘のためにそのことを書いておこう。
いま私が住んでいる東京都北区では、「北区内田康夫ミステリー文学賞」なる文学賞が開催されている。
すでに八度開催されて、受賞者のなかにはすでに作家として軌道に乗り、旺盛な創作活動に邁進されている方もおられるらしい。
その第九回選考の締切りが九月三十日であった。
応募することは今年の前半には決心していたはずだが、私が実際に書き始めたのは八月の半ばである。
3000字ほど書いて、九月後半までほとんど手付かずの状態が続いた。
「まあなんとかなるだろう」という無根拠な楽観的姿勢は、こちらの画像に詳しい。
http://pliom.tumblr.com/post/290099385/via-16-media-tumblr-com
この入稿一週間前の白熊がまさに私であった。
妻が十九日から二十六日までインド旅行に行っていたのだが、旅行から帰ってきた妻に「まだ8000字位」と申告したときの気まずさと、平静を装う妻の眼の奥に閃いた殺意を忘れまい。
妻の帰宅した日を含めて残り五日。
その状態から、なんとか三十日夕方五時の締切り直前、四時ごろまでに、22000字超の作品を書き上げることにかろうじて成功した。
しかし、ほんとうにギリギリの直前になるまで、完成は覚束なかったのである。
結末の大幅な変更を決意したのは、締切り当日の正午頃であった。
残念ながら伏線は回収できず、作品は惨めな「デウス・エクス・マキーナ」的決着に終わった。
だがいまは、受賞作品が紙媒体に掲載される文学賞への初挑戦と、私の知らなかった私に出会えたことを喜びたいと思う。
次の応募予定は「開高健ノンフィクション賞」。
原稿用紙三百枚程度。
締切りは二月末日である。
いよいよ正念場が近付いてきた。


唐突に話は変わるが、近頃「精神分析」がマイブームである。
私の語る精神分析なぞ門前の小僧の類なのではあるが、それにしても種々の本を読むにつけ、フロイトが人文系学問に与えた影響の巨大さに圧倒されるばかりなのだ。
なかでも注目しているのは、「防衛機制」の「投射」という概念である。
防衛機制というのは「自我」がみずからを守ろうとする心理的な働きのことで、精神分析はその働きをいくつかに分類している。
防衛機制、などと言うと小難しく響くが、要は見栄を張ったり都合の悪いことを忘れたり、ヒーローに自分を重ねたりという、ごくごく身近な心の働きのことなのだ。
すべての人に似たような心が備わっている。
異なるのはただ、「自覚」の度合いのみである。
その防衛機制の一つに、「投射」がある。
この投射というのは、「投影」とも呼ばれ、Yahoo!辞書では「自分の性質を他人の性質にしてしまうこと」という簡潔な説明がなされている。
私はかつて『ホムンクルス』というマンガを読んでいるときに、「他者の病を見出すものは、同じ病を病むものだけである」ことを学んだ。
その後、ヘッセの言葉にも出会うことになった。
「われわれがある人間を憎む場合、われわれはただ彼の姿を借りて、われわれの内部にある何者かを憎んでいるのである。(デミアン)」
私たちにより馴染み深い言葉で言うなら、「同族嫌悪」という言葉がもっとも近いのではないかと思う。
例えば、目の前に「つり銭を2円間違えられたことでひどく憤慨している男」がいると想像していただきたい。
その男は延々と愚痴っている。
「こうやってセコく儲けてやがるんだ。まったくがめつい野郎だ。」
そんな愚痴を延々聞かされている普通の人の心に兆すのは、おそらく、
「別にいいじゃないか。たかが2円くらい。」
という気持ちであり、また、
「2円にこだわってるお前も同じくらいセコいぞ。」
という気持ちなのではないだろうか。
もし万が一つり銭間違いが店主によって意図的になされたものであったとしても、そのことで不満を漏らし続けるその男は、図らずも店主と同程度の自身の「セコさ」を露呈してしまうことになるのである。
精神分析は「あんなものは科学じゃない」といって否定されることも多いと仄聞するが、こうして具体的な場面を想像すれば「あるある」と納得できるあたりがまことに偉大である。
さて、このあたりで「投射」という機制についてはご理解いただけたと思う。
重要なのはこの先である。
あらゆる「批判」には、この「投射」が付きまとっている。
自分の中にない「悪」は発見することができず、ある「悪」を告発することは己に内在する「悪」を告白することと同義だからである。
私のような攻撃的な人間が、この「投射」に気付かず様々な批判を繰り広げていると、とんでもないしっぺ返しを食うことになる。
私はかつて、「拝金主義」や「権力志向」、「管理体制」、「色欲」、「怠惰」、「マーケティング」、「反米勢力」、様々なものを批判してきた。
すべては「投射」に無自覚だったためである。
そして私は、己の無意識の欲望をさらけ出し、それが「投射」的振る舞いであることを知る人々から、批判を受けることになった。
ただし、私がかつて批判の対象としてきたものを私の「本質」と捉えるのはやや早計であるように思う。
それらの「悪」は、完全に私自身の内部のみから発したものではないからだ。
例えば、ニュース番組で流行りの詐欺についての情報を入手するとき、私たちは警戒心を高めると同時にその詐欺の手法を身に付けてしまうことがある。
手法を知らなければそれから身を守ることはできないのである。
そのようにして、私の内部にも「悪」は滞留していた。
だからかつての発言を見逃していただきたい、と言いたいのではない。
私は己の無知に対しての支払いをするつもりでいる。
それにしても、この「投射」という概念は厄介なものである。
芸術を解する教養豊かな男性諸君におうかがいしたいのだが、あなたは「ゲイ」だと疑われたことはないだろうか?
私は中学生ぐらいのころから度々「トミーってホモなんじゃねーの?」という疑念をぶつけられてきた(その度に否定してきたが)。
だがそこで、あまり行き過ぎた否定をしたり露骨な同性愛嫌悪を表明すると、またぞろ「投射」が顔を出すのである。
それもまた困る。
ということで、私は本日も美女とすれ違うたびに喝采を送っているのであった(あくまでも内心で)。


あんまり久々だとうまくオチがつかない。