「玉藻」8

「しょうたー。おっきろー。」
 鼻のあたりがムズムズする。背中に当たる畳の感触がじわじわと意識に上ってきて、あ、おじいちゃんちに来てたんだっけ、晩ご飯かな、と思ってうっすら目を開けた。ぼやけた視界がはっきりとしたとき、目の前に現れたのは、ぼくに覆いかぶさるようにして「めしだぞー」と言っている、マコ姉の顔だった。ムズムズのもとは、マコ姉の髪の毛だったのだ。
「ひっ。」
 ぼくは反射的に両手をジタバタさせて後ずさりした。悪魔だ。悪魔の革命姉ちゃんだ。あまりにも慌てて後ろに下がったものだから、ぼくは壁に頭をぶつけた。しかもまずいことに、足がマコ姉の腕に当たってしまった。「お、起きた起きた」と喜んでいたマコ姉はその瞬間邪悪な本性をむき出しにして、「てーじゃねーかのやろー」と言うが早いかぼくの両足をがっちり掴むと、電気アンマを繰り出してきた。ぼくの悲鳴が家中に響いた。
 拷問を終えたマコ姉はさっさと立ち上がって、食卓の自分の席に着いた。ようやく解放されて、半分涙目になりながらうずくまって呻いていたら、食卓から追い撃ちをかけるようにマコ姉の声が飛んできた。
「どーした翔太。うっかりヰタ・セクスアリスでもしたか。揚げたての天ぷらだぞ。」
 マコ姉が何かしら言っちゃいけない類の言葉を口にしたらしいことは、周りの大人たちの様子から見て取れた。別にしかめ面をしたり注意したりするわけじゃないけど、一瞬動きが止まる。ぼくは微妙に気温が二、三度下がったような雰囲気の食卓に、おずおずと近付いた。スイカで膨れていたはずのお腹は、もうすっかり戦闘準備を整えていた。いただきます。
「おいしい。千代子さん、この天ぷらは絶品だね。」
 おじいちゃんがおばあちゃんに向かって微笑むと、おばあちゃんはうっすらと頬を赤らめて、
「イヤです貴宗さん、子供たちの前で。」
と普段より高めの声でつぶやく。おばあちゃんは、おじいちゃんに褒められると、「問答無用のおばあちゃん」じゃなくなっちゃうのだ。信じられないことに、ぼくたちはこの家に来るたびにこんな光景を目にしている。夫婦暦は四十年を超えているはずなのに。うちの両親も仲は悪くないほうだと思うけど、このカップルは桁外れだ。そういえば、マコ姉もおじいちゃんに対してだけは敬語を使う。おじいちゃんの人徳なのかもしれない。もしかして、猛獣使いの才能でもあったりして。
 しかし、そんな平和な空気はおじいちゃんとおばあちゃんの間にしか存在しない。京子伯母さんは一人マイペース。ぼくとシホは、マコ姉の横暴に必死で抵抗している。一応エビは一人三尾ずつと決まっているのに、マコ姉はそれを一切守らない。エビだけ食べる。しかもご飯をほとんど食べない。時々漬物をつまむ。つまり、ぼくたち二人がエビを食べてご飯、漬物でまたご飯を一口、次はレンコン、なんてことを悠長にやっていると、あっという間にマコ姉の魔の手が伸びてくるのだ。カラリとした衣を泣く泣く諦めて、とにかく避難させなければと天つゆの器に確保しておいても、気が付くと奪われていたりする。ほんとうに油断ならない。そんなわけで、食卓は静かな戦場と化していたのだった。