さよならジッド

さて、翌日。

「一粒の〜」を読んでいる最中は堀口大學の訳にも問題があるのかと思っていました。堀口訳のランボー、と言えば先行世代で完全に神話化された存在でしたから、それも結局虚構に過ぎなかったのか、と。今ではそんな神話になった人々のことすら知らない人のほうが大多数みたいですけど。

山内義雄訳「狭き門」の冒頭を読んでやはり堀口が元凶か、との思いを強くしましたが、これもしばらく読み進めるうち文章は破綻。どうもジッドの文章には根本的な問題があるようです。だからと言って堀口訳が無罪とは言いません。何しろランボーの詩に京や大阪を登場させてしまう人らしいですから。

「狭き門」は途中で放棄してしまいました。これは僕にとってひどく稀なケースです。「一粒の〜」は現在絶版とのこと。それも仕方のないことでしょう。教養を身につけるための勉強にとジッドに当たり、次の本を手に取らなくなってしまう人が生まれることのほうが心配ですから。

そうは言っても、研究的な目的がある人にとってはどうしても避けて通れない作家なのかもしれない、という思いは残ります。昨日名前を挙げたような人物や、日本でも坂口や横光のような作家はジッドを重要視しています。それにカミュ、ロレンスとの関連もあるでしょうし。

高校生の時に「田園交響楽」を読んだ時にはその悲劇に震えた覚えがあるんですけどね。けれどすでに本棚にあった次のジッドには手が伸びなかった。その傾向は中年に至ってますます強まりつつある、ということなのでしょう。「贋金つくり」を見かければ立ち読みくらいはしそうですが……。


ある小説との幸福な出会いを果たすこと。ごくシンプルなようでありながら、これほど難しいこともないのかもしれないと思わされることがあります。……ほら、いま考え出したら止まらなくなった。

はい、これで愚痴は終了。結論としては、「一粒の〜」を読むくらいだったらケルアックの「地下街の人々」を読みましょう(マードゥは奇跡です)、どうしても読まなきゃいけない人は鼻をつまんで読みましょう、といったところでしょうか。

うん、書いてるうちに指がこなれてきました。この調子でリハっていきますか。「細雪」の話はまた今度(って、誰に言ってんだか)。さ、昼だ昼だ。


と書いて二日目は終了。

一人の作家にも多様な作品があるものです。
もしジッドの作品のなかに私にとって大事な一冊となりうるものがあるのなら、私は大きな損をしているのでしょう。ですが、そんな一冊がないことを確かめるためだけに読書を続けることはできません。それこそ縁という言葉で気持ちの整理をつけることしかできないのだと思います。
さよならジッド。
また出会う機会があって、それがいい作品だったら、きっと力の限り褒め称えるからね。