タルコフスキー/ストーカー

 ──自分で映画を見てからでなくては、なんともいえないなあ。


タルコフスキー映画はずっと見たかったし、いい機会だと思って見てみることにした。なぜか昨日は犬の散歩をしている人をよく見かける日で、
 ──お前も大江の言いなりかよ。このワンコロが。
とか偶然に馬鹿にされているような気もしてたんだけど、そこをぐっと乗り越えてね。まあそういうことで頑張らなきゃいけない日もあるのです。


結論としては、すごく見て良かった。タルコフスキーはきっとこれから他の作品も見て語ることになると思う。


ではまず、ざっとあらすじの紹介から。
舞台になるのは「ゾーン」。20年ほど前その地域で何か(・・)が起こった。隕石が落ちたのか宇宙人が来たのか、と推測は述べられているけれどはっきりとした原因は不明。映画を見る僕らにわかるのはその地域の建造物が完全な廃墟になっていることだけだ。派遣した軍隊は全滅。手の打ちようがないんだよ、とノーベル物理学賞を受賞したウォーレス博士がライ記者に語った言葉が画面を流れるところから映画は始まる。


ストーカーはその「ゾーン」を旅行者に案内することを生業にしている。


タルコフスキーがロシアの映画監督であることを知っている人には、チェルノブイリ原発事故、そしてその後の観光地化を──それにもしかしたら、日本で東浩紀がさかんにフクシマの観光地化を主張していることまで──思い出させる設定だ。けれどストーカーは1979年の映画で、86年に起こったチェルノブイリの事故よりも7年早く制作されている。


「ニガヨモギチェルノブイリを予言したことになったのは、チェルノブイリ以後だろ?」


そんなことを口にしては「予言」という言葉で煽りにかかる動きを牽制してばかりいる僕だけれど、やはりその手の前後関係を発見するとドキリとする。ヘミングウェイは「キリマンジャロの雪」で描いた飛行機事故にその後二度遭遇した。その事故が最終的に自殺へと至る破滅の道を彼に開いた。気づいた瞬間のあの戦慄──そういう感情を抱かせる力を予言的作品は持っている。それは僕も認めなければいけない。


いきなり脇道に逸れてしまった。話を元に戻そう。


そのストーカーのもとに現れたツアー参加者希望者は二人。一人は「作家」、もう一人は「教授」。ストーカーは引き止める妻を振り払って仕事に出掛ける。物語は、「ゾーン」そして「部屋」に向けて、リボンを結びつけたナットに導かれながら進んでいく。


大江健三郎が「案内人」で出した論点は
・コップの動き
・呪われた子供
・ストーカーの妻の官能的な様子
・ベートーベン第九「歓喜の歌」
・ストーカーという映画版タイトル(原作はストルガツキー兄弟「路傍のピクニック」)
といったところ。けれど「案内人」という作品のポイントは、きっとそこに父親の作家が登場しなかった点にあったのだと思う。


作家はこの映画について語ることができない。語れば映画に登場する作家に触れなければいけなくなるから。


そう思わせるほどこの映画に出てくる作家は過激な発言を繰り返す。第一声が
「この世界は退屈でやりきれん」。初めて出会った教授にいきなり「書くことに意味なんかありませんよ」。この作家はずっとこの調子だ。ありとあらゆるものをこき下ろし、傲慢な発言を繰り返す。言を左右し、話題を転々として決して尻尾をつかませない。


このあいだ見た「きっと、星のせいじゃない。」という映画に出てくる作家もそうだった。その暴力が作品内にとどまるかそれとも日常生活に及ぶか、あるいは作品の反作用として日常でのみ暴力的になるか、というのは実際にはそれぞれの作家次第なんだろう。けれどすでにそういうステロタイプは出来上がっている。そのステロタイプに反抗する小説家を生み出すほどに。


教授は「秩序」、作家は「無秩序」、ストーカーは「純粋さ」。そういった性質を持つ三人の中年男が延々と暗鬱なピクニックを続けるだけのこの映画が、意外なことにまったく飽きさせない。タルコフスキーの技術には空恐ろしいものがある。映し出されるのはストーカー家族の住む貧しい家屋や廃墟だらけの「ゾーン」だ。それなのに映画には全編絵画の印象があって、見るものを惹きつけてやまない。水面。意外なアングルからの長回し。前衛舞踊を思わせる人物の配置。画面の色調変換。意味深なオブジェのクローズアップ。伏線と説明しすぎない回収、そしてひそかな裏切り。絶妙のナレーションのかぶせ方(このあたりはゴダールっぽい)。音楽の使い方はかなり禁欲的で、使われる場面の違和感を効果的に際立たせていた。物語と台詞以外にも、それだけの映画的技術がこの映画を複雑でミステリアスな、豊かな作品に仕上げている。


ただし語られる内容はひどく暗い。
一度目は作家や教授と一緒になってストーカーに引きずりまわされるばかりだった。ただ台詞が僕にとってひどく切実で、発言者が誰なのかもよくわからないままに作品を見終えていた。二度目の理解は残酷だった。ストーカーの狂気と二人の虚無がむき出しになっていたから。そういう面白さを受け容れられる人に向いた映画だと思う。


この映画でも、作家はいばらの冠を被っていた。