大江健三郎/頭のいい「雨の木」

 十六年、という月日について語ることにまだ軽い戸惑いを覚えるのは、私が口先では自分をおっさんだの中年だのと揶揄してみせるわりに、本心のどこかに自分の年齢に納得し切れない部分を残しているからなのだろう。
 「空の怪物アグイー」から十六年。同一人物とは思えないほど変貌していたとしてもおかしくないくらいの年月を経ても、大江健三郎はかつての自分の作品に対する批判に答え続けているように見える。


 ハワイ大学の『東西文化センター』が主催した《文化接触と伝統の再認識》というテーマのセミナーに僕はパネリストの一人として参加する。小説は当初、僕がそこで過ごした日々の報告のかたちをとる。会場となったニュー・イングランド風の建築物、そこは精神病治療の民間施設でもある。部屋から見える巨大な「レイン・ツリー」。スポンサーの女性、他の参加者との交流、紛れ込む陳情者、どこか奇妙なウェイターたち。報告はいつの間にか小説にすり替わっていて、どこから小説になっていたのかは読み終えてからわかる(わからないかもしれない)。
 アレン・ギンズバーグは十代の少年少女を性的に搾取して悪びれる風もない。それどころかそれを大っぴらに見せびらかしさえする。彼にとって信奉者の存在は格好のアピール材料で、信奉者たちはむしろ一番の材料たらんとその身と情熱を捧げている。僕はその同盟者であるようだ。けれどギンズバーグの挑発的なパフォーマンスが当然のように非難の対象になるものだから、僕は無難で慎重な発言に終始する。
 セミナー終了後に開かれるパーティーをある晩、建築家が訪れる。その雄弁な理性の代弁者はギンズバーグを攻撃してパーティーを盛り上げる。ギンズバーグはそんな見世物はお手の物とでもいった態度で負け戦を楽しむ余裕を見せる。そしてその議論の絶頂で、建築家は自らがその舞台となるべく手がけたニュー・イングランド風の建築物に込めた理念を語り始める───。


 大江健三郎はやはり敵の口からも語っている。そうと気づくまでには少し時間のかかる仕掛けだ。だから本音は建築家の意見にある、とまでは言わない。おそらくはその秩序と無秩序の相克こそが大江健三郎の総体なのだろうから。ここに描かれる上昇は立身出世主義的な成功からははるかに隔たって、最後のセーフティネットとしての文学の姿を明らかにする。だがここもまたピラミッドなのではないか。羽ばたく先にあるのもまた別のピラミッドなのではないか。そんな疑問に対する答えまでは提出されていない。私はきっと、この先の短編にその手がかりを探すことになるだろう。
 吉本隆明が娘に教えたという「大勢いるときにはいちばん低いものであれ」という言葉、あるいは小津安二郎作品の低いカメラ位置を思い出しながら読んでいた。そしてこの文章を書きながら、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を忘れていたことにも気づいた。子供と大人を儀礼的に隔て子供に革命者の役割を託す世界と、成熟を必要としない世界。その是非をめぐる終わりなき問いはまだ私のなかを蠢いている。


 伏線、事件、どんでん返しとドラマ的には構成されているけれど、大江健三郎はどうしてもストーリーテラーにはなりきれない。この小説はその事実を再び証明している。それが明らかな失敗にならずに済んだのは、じわじわと浸透するように理解されてくる内容の重さが瑣末な欠点を追い払ってしまうからだろう。


 ───文化と芸術の装いを凝らした狂者の宴。


 自分はそんなものに参加したことはないと主張できる人間が、この地上にいったいどれほどいるのだろう。