無名草子六 佛

六 佛


 又、「ことあたらしく申すべきにはあらねど、この世にとりて第一にめでたく覺ゆる事は、阿彌陀佛こそおはしませ。念佛の功紱のやうなど初めて申すべきならず。南無阿彌陀佛と申すことは返す返すめでたく覺え侍るなり。人の怨めしきにも、世のわびしきにも、もののうらやましきにも、めでたきにも、たゞいかなる方につけても、強いて心にしみて物の覺ゆる慰めにも、『南無阿彌陀佛』とだに申しつれば、いかなることもこそ、とく消え失せて慰む心地する事にて侍れ。人はいかゞ思さるらん。身にとりてはかく覺え侍れば、人のうえにてもたゞ『南無阿彌陀佛』と申す人は〔さ〕思ふならむと、心にくゝ奥ゆかしく、あはれにいみじくこそ侍れ。『左衞門督公光と聞えし人、もと見なれたる宮仕人の、こと心などつかひけると聞きて後、たまたま行き逢ひて、今はそのすぢの事などつゆもかけず、大方世の物語、内裏(うち)わたりのことばかり、言少なにして、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛といはれて侍りけるこそ、來し方行く先の事いはむよりもはづかしく、汗も流れていみじかりしか。』と語る人侍りしか。まして後の世のため、いかばかりえうしにてか侍るらむ。」といへば、又「功紱のなかに、何事か愚なると申すなかに、思へど思へとめでたく覺えさせ給ふは、法花經こそおはしませ。いかに面白くめでたき繪物語といへど、二三べんも見つれば、うるさきものなるを、これは千部を千部ながら聞く度にめづらしく、文字ごとに始めて聞きつけたらん事のやうに覺ゆるこそ、あさましくめでたけれ。『無二亦無三』と仰せられたるのみならず、『法華最第一』とあめれば、ことあたらしくかやうに申すべきにはあらねど、さそこは昔よりいひ傳へたることも、かならずさしも覺えぬ事も侍るを、これはたまたま生れあひたる思ひ出、たゞ此の經にあひ奉りたるばかりとこそ思ふに、など源氏とてさばかりめでたきものに、此の經の文字の一偈一句あはせざるらん。何事か作り殘し書きもらしたること一言も侍る。これのみなむ第一の難と覺ゆる。」といふなれば、あるがなかに若き聲にて、「紫式部が法花經を詠み奉らざりけるや。」といふなれば、「いさや、それにつけてもいとくちをしくこそあれ。あやしの我が歌に、後の世のためはさるものにて、人のうち聞かむも情おくれて覺えぬべきわざなれば、あながちにしても詠み奉らまほしくこそあるに、さばかりなりけん人、いかでかさることあらん。」などいへば、又、「さるはいみじく道心あり、後世の恐れを思ひて朝夕おこなひをのみしつゝ、なべての世には心もとまらぬさまなりける人にやとこそ見えたあれ。」などいひ始めて、


<現代語訳>


 また、「わざわざ言うまでもありませんが、人生でもっとも悦ばしく感じられることは、阿弥陀仏でしょう。念仏の功徳がどうこうなどと今更言うまでもありません。南無阿弥陀仏と唱えることは返す返すもありがたいことです。人が怨めしくとも、生がわびしくとも、物が羨ましくとも、素晴らしくとも、とにかく何事につけても、無性に気がかりでならないことがあるときの気晴らしにも、『南無阿弥陀仏』とさえ唱えれば、どんなことであっても、さっと消え失せて気持ちが休まるのです。人はどう思っているかは知りませんが、わが身にはそう感じられるものですから、人がただ『南無阿弥陀仏』と唱えていればきっとそう思っているのだろうと思われ、慕わしく心引かれて、しみじみと情趣が深いのです。『左衛門督公光とおっしゃる方は、以前宮中にお仕えになっていた人がずいぶんと気疲れすると話されているのをお聞きになって後、またばったりその人と出会って、今では当時のことなど露ほども気に掛けず、この世で出回っている物語は宮中のことばかりだと、言葉少なに、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えていらしたのを(ご覧になって)、過去や未来の話をするよりもご立派で、汗も流れてひどく素晴らしいものだ。(と思われたそうです。)』と語る人がいらっしゃいました。唱えるだけで、生きている間にもこれだけのご利益があるのです。まして来世には、どれほど素晴らしいことが待ち受けているのでしょう。」と言う人がいればまた、「功徳の中には愚かなものもあると言いますが、考えれば考えるほど素晴らしく思われるのは、法華経でしょう。どれほど面白く見事な絵物語であっても、二三遍も読めばうんざりしてしまうものですが、これは誰が読んでいるのを聞いてもありがたく、一文字一文字が初めて聞いたもののように感じられるのは、驚くほど素晴らしいことです。『無二亦無三』(仏の道には大乗も小乗もなく、それ以外の道もない)と仰られたばかりでなく『法華最第一』とあるようですし、わざわざこんな風に言う必要もないのですけど、それこそ昔から言い伝えられてきたことの中には、必ずしもそうとは思えないこともありますが、私はたまたま生まれてきた思い出はただこの経に出会えたことだけだと思っているほどですのに、どうして源氏物語ほど素晴らしいもののなかに、この経の詩句が一つも見当たらないのでしょう。これだけが欠点のように思われます。」と言う人も現れ、居並ぶ人々の中から若い声で「紫式部法華経をお読みにならなかったのでしょうか。」と聞えたものだから、「さあ、それにしたって残念ではありませんか。来世のためですから仕方のないことなのですけど、私の歌はつまらなくて、ちょっと人に聞かれるだけでその人を思いやりのない人だと思ってしまうほどだというのに、無理やりにでも読ませたいほど素晴らしいものを書いたその人が、そんな有様だなんて。」などと言えば、また「そうなってしまったのは、悟りを求める気持ちが強すぎ、将来や来世を畏れて一日中勤めばかりに励んでいたので、世間知らずになってしまった人だったからなのではとないかと思っていました。」などと言い始めて、