無名草子七 源氏物語 イ 巻々の論

イ 巻々の論


 「さてもこの源氏作り出でたることこそ、思へど思へどこの世一(ひとつ)ならずめづらかに覺ゆれ。誠に佛に申し請いたりける驗(しるし)にやとこそ覺ゆれ。それより後の物語は、思へばいとやすかりぬべきものなり。かれを才覺にて作らんに、源氏に勝りたらん事を作り出す人もありなむ。わづかに宇津保・竹取・住吉などばかりを物語とて見けむ心地に、さばかりに作り〔出で〕けむ凡夫のしわざとも覺えぬことなり。」などいへば、又ありつる若き聲にて、「未だ見侍らぬこそくちおしけれ。かれを語らせ給かし。聞き侍らん。」といへば「さばかり多かるものを、諳(そら)にはいかゞ語り聞えん。本を見てこそいひ聞かせ奉らめ。」といへば、「たゞ先づ今宵仰せられよ。」とてゆかしげに思ひたれば、「げにかやうの宵つれづれ慰めぬべきわざなり。」など口々いひて、
 「巻々のなかに何れが勝れて心に泌みてめでたく覺ゆる。」といへば「『桐壺』にすぎたる巻やは侍るべき。『いづれの御時にか』とうち始めたるより、源氏初元結の程まで、言葉つゞき有樣を始め、あはれに悲しき事この巻にこもりて侍るぞかし。『帚木』の雨夜の品さだめ、いと見どころ多く侍るめり。『夕顔』は一筋にあはれに心苦しき巻にて侍るめり。『紅葉〔の〕賀』『花の宴』、とりどりにえんに面白く、えもいはぬ巻々に侍るべし。『葵(あふひ)』、いとあはれに面白き巻なり。『賢木』、伊勢の御出立の程もえんにいみじ。院かくれさせ給ひて後、藤壺の宮様かへ給ふ程などあはれなり。『須磨』、あはれにいみじき巻なり。京を出て給ふ程のことども、旅の〔御〕すまひの程などいとあはれにこそ侍れ。『明石』は『浦より浦に浦傳ひ』給ふ程。又浦をはなれて京へ赴き給ふ程。
  『都出でし春のなげきに劣らめや年ふる浦を別れぬる秋』
などある程に、都をいで給ひしは、いかにもかくてやむべきことならねば、また立ち歸るべきものと思されけむに、思し慰み給ひけん。この浦は『またはなにしにかは』と限りに思しとぢめけん程、ものごとに目とまり給ひけんことわりなりかし。『蓬生(よもぎふ)』いとえんある巻にて侍る。『槿(あさがほ)』、紫の上の物思へるがいとほしきなり。十七の竝びのなかに、『初音』『胡蝶』などは面白くめでたし。『野分』の朝こそ、さまざま見所ありてえんにをかしきこと多かれ。『藤の裏葉』いと心ゆきうれしき巻なり。『若菜』の上・下ともにうるさきことどもあれど、いと多く見所ある巻なり。『柏木』の右衛門督の失せいとあはれなり。『御法』・『幻』いとあはれなることばかりなり。宇治のゆかりは『こじま』に様かはりて、言葉づかひも何事もあれど、姉宮の失せを始め、中の君などいといとほし。」など口々にいへば、


<現代語訳>


イ 巻々の論


 「それにしてもこの源氏が創りだされたということを考えると、この世に素晴らしいものは一つだけではないのだと思わされます。本当に、これこそが御仏に請い願ってきた証なのではと思えてきて。それより後の物語作りは、思えばずいぶん簡単になったものです。あれに工夫を凝らせば、源氏に勝るものを作り出す人もいるでしょうね。わずかに宇津保・竹取・住吉くらいしか物語のなかった時代に、あれほどのものを作るとは人間業とも思われません。」などと言うと、また若い声で、「まだ読んだことのないのが残念でなりません。その方に語っていただきましょうよ。聞きたいわ。」と言うのが聞えてきて、「あんなに多いものを、どうやってそらで語れましょう。本を見てお聞かせしますよ。」と言うと、「とにかくとりあえず今晩語ってくださいな。」と言うので聞きたいと思っていると、「本当にこんな宵の気晴らしにうってつけですわ。」などと口々に言って、
 「巻々のなかのどれが他よりも心に沁みて素晴らしいでしょう。」と言うと「『桐壺』を超える巻などあるでしょうか。『いづれの御時にか』と始まり、源氏が初めて髪を結って元服するところまでに、美しい文章で綴られたしみじみと悲しい出来事が詰まっていますよ。『帚木』の雨夜の品定めの場面には、とても見所が多くあります。『夕顔』は一筋に物悲しくて胸が痛む巻です。『紅葉の賀』『花の宴』はとりどりに優美で面白くて、なんとも言えずよい巻々です。『葵』は、とても趣深くて面白い巻です。『賢木』は、伊勢へと御出立になる様子が優美で素晴らしい。桐壺帝が崩御されて、藤壺の宮樣がご出家なさるあたりも情趣に富んでいます。『須磨』はしみじみとして素晴らしい巻です。源氏の君が京をお出になるあたりや、旅の様子が描かれているところなどがとても物悲しくて心引かれるのです。『明石』の巻では、須磨から明石へと移られるところ、それからさらに明石を離れて京へ赴くところです。
  『都出でし春のなげきに劣らめや年ふる浦を別れぬる秋』
  (日々を過ごしたこの明石の浦に別れを告げるこの秋の嘆きは、都を去ったあの春の嘆きに劣ることがあるだろうか)
などとお歌いになっているところでは、都をお出になったことには止むに止まれぬ事情がおありでしたけれど、また立ち帰るべきとお思いになったからこそ、お気持ちを晴らしておいでだったのでしょう。この浦に『再び訪れることなどあるだろうか』と、これを限りに思い切るつもりでいらしたからこそ、物事にお目が留まったということなのでしょうね。『蓬生』はたいへん優美なところのある巻です。『朝顔』は、紫の上が思い悩まれるのがおいたわしくていらっしゃいます。『玉鬘』から『真木柱』の間では、『初音』と『胡蝶』が趣深く素晴らしい。『野分』の朝の場面には、様々な見所があって上品で風雅な点が多くございます。『藤裏葉』は晴れやかでうれしい巻です。『若菜』は上・下ともにわざとらしい点はありますけれど、とても多く見所のある巻です。『柏木』では右衛門督がお亡くなりになるのがしみじみと感慨深い。『御法』・『幻』はひどく情趣の深いところばかりです。宇治十帖のあたりでは『こじま』(意味不詳。注に「浮舟の巻をさすのだらう」とある。)に様変わりして、言葉遣いやその他の点で問題はありますが、姉宮がお亡くなりになるところや、中の君などがたいへんいじらしい。」などとみな口々に言うのだった。