無名草子一 いとぐち

一 いとぐち


 八十(やをぢ)餘り三歳(とせ)の春秋いたづらにて過ぎぬる事を思へばいと悲しく、たまたま人と生れたる思出に、後世の形見にすばかりのことなくてやみなむ悲しさに、髪を剃り衣を染めて、僅に姿ばかりは道に入りぬれど、心はたゞそのかみに變ることなし。歳月の積りに添へていよいよ昔は忘れがたく、ふりにし人は戀しきまゝに人知れぬ忍び音のみ泣かれて、苔の袂〔も〕乾く世なき慰めには花籠(はなこ)と臂に掛けて、朝毎に露を拂ひつゝ、野邊の草むらに交りて花を摘みつゝ、佛にたてまつるわざをのみして、數多年經ぬれば、いよいよ頭の雪積り、面の波も疊みて、いとゞ見まうくなりゆく鏡の影も、我ながらうとましければ、人に見えむこともいとゞつゝましけれど、道のまゝに花を摘みつゝ、東山わたりをとかくかゝづらひ歩く程に、やうやう日も暮方になり、たち歸るべきすみかも遙けければ、いづくにても行きとまらむところに寄り臥しなむと思ひて、「三界無安猶如火宅」に口誦みて歩み行く程に、最勝光院の大門あきたり。
 うれしくて歩み入るまゝに、御堂のかざり・佛の御樣などいとめでたくて、浄土もかくこそと、いよいよそなたにすゝむ心も催さるゝ心地して、昔より古き御願ども多く拜み奉りつれど、かばかり御心に入りたりける程見えで、かねの柱たまの幢(はた)を始め、障子の繪までみどころあるを見侍るにつけても、まづこの世の御幸も極め、又後の世もめでたくおはしましけるよと、羨ましく伏し拜みてたち出でて、西ざまにおもむきて、京の方に歩み行くに、都のうちなれど、こなたざまはむげに山里めきていとをかし。
 五月十日宵の程、日頃降りつる五月雨の霽間(はれま)待ち出で夕日きはやかにさし出で給ふもめづらしきに、時鳥さへともなひがほに語らふも、しでの山路の友と思へば、耳とまりて
  をちかへりかたらふならば時鳥しでの山路のしるべともなれ
とうち思ひ續けられて、こなたざまには人里もなきにやと、はるばる見渡せば、稲葉そよがむ秋風思ひやらるゝ早苗、逭やかに生い渡りなど、むげに都遠き心地するに、いと古らかなる檜皮屋(ひほだや)の棟遠きより見ゆ。
 いかなる人の住み給ふにかと、あはれに目とまりて、やうやう歩み寄りて見れば、築土(ついぢ)も所々崩れ、門の上などもあばれて人住むらんとも見えず。たゞ寢殿・對・渡殿などやうの宿も、少々いとことすみたるさまなり。庭の草もいと深くて、光源氏の露分け給ひけむ蓬も所得顔なる中を分けつゝ、中門より歩み入りて見れば、南面の庭いと廣くて、呉竹植ゑわたし、卯の花垣根など、まことに時鳥陰に隱れぬべし。山里めきて見ゆ。前栽むらむらいと多く見ゆれど、まだ咲かぬ夏草の繁みいとむつかしげなる中に、撫子・長春花(ちょうしゅんぐゑ)ばかりぞいとこゝろよげに盛りと見ゆる。軒近き若木の櫻なども、花盛り思ひやらるゝ木立をかし。南面のなか二間ばかりは、持佛堂などにやと思えて、紙障子白らかに閉(た)てわたしたり。不斷香の煙けぶたきまで燻(くゆ)り滿ちて、名香の香などかうばし。まづ佛のおはしましけると思ふもいとうれしくて、花籠を臂に掛け、檜笠を頸につらされながら、縁のきはに歩み寄りたれば、寢殿の南東とすみ二間ばかりあがりたる御簾のうちに、箏(しやう)の琴の音ほのぼの聞ゆ。いとこゝろにくゝゆかしきに、若やかなる女聲にて、「いとあはれなる人のさまかな。さほどの年に如何ばかりの心にていと見苦しげなるわざをし給うぞ。小野小町が臂に掛けけむ筐(かたみ)よりはめでたし」などいふ人あり。「阿私仙に仕へけむ太子の御心よりも、ありがたくこそ覺ゆれ。」などいふよりうち始め、同じ程なる若き人三四人ばかり、色々の生絹(すゞし)の衣(きぬ)・練貫などいと萎えばみたる著て、縁に出でたり。ところのさま藭さび古めかしかりつる程よりは、めやすきさまなめるかなと見る。
 「昔の身の有様如何なりし人の果てぞ。」などなつかしく問ひ尋ねあはれば、「いとうとましげなる有様を、をちにて見などもし給はで、むげに若き〔御〕程に、慈悲深くものし給ひけるも、かゝる佛の御あたりにものせさせ給ふ御故にや侍らむ。」などいひ始めて、「若くての身の有様、人々しくそのものなど語り聞えむ聞きどころありと思し召さるべきものにも侍らず。たゞ年の積りにはあはれにもをかしくもめづらしくもさまざま思し召されぬべきことを聞きつめて侍りしかども、そも久しくなりてはかばかしくも覺えねば、いとかひなしや。」と聞こゆれば、「それこそは聞かまほしけれ。さてさて昔より身にありけむことも、聞きつめけん世の事も、つゆ殘らずこの佛の御前に懺悔し給へ。」と言へば、昔語はげにせまほしくて、花籠・檜笠など縁にうち置きて、勾欄によりかゝりぬ。
 「人なみなみのことには侍らざりしかども、數ならずながら十六七に侍りしより、皇嘉門院と申し侍りしが御母の北の政所に侍ひて、讃岐院・近衛院などの位の御時、百敷(もしき)のうちも時々見侍りき。さて失せさせ給ひしかば、女院にこそ侍ひぬべく侍りしかども、猶九重の霞にまよひに花を弄び、雲の上にて月をも眺めまほしき心あながちに侍り。後白河院位におはしまし、二條院春宮と申し侍りし頃、その人數に侍らざりしかど、自ら立ち慣れ侍りし程に、さる方に人にも許されたるなれ者になりて、六條院・高倉院などの御代まで時々仕うまつりしかども、つくも髪〔見〕苦しき程になり侍りしかば、頭剃して山里に籠りゐ侍りて、一部讀み奉ること怠り侍らず。今朝とく出で侍りて、とかくまどひ侍りつる程に、今まで懈怠し侍りにける。」とて、頸に掛けたる經袋より、冊子(さうし)經取り出でて讀みゐたれば「暗うてはいかに。」などあれば、「今は口なれて夜もたどるたどるは讀まれ侍る。」とて、一の卷の末つ方、方便品比丘偈などよ、りやうりやう忍びて打ちあげなどすれば、いと思はずにあさましがりて、「今少し近くてこそ聞かめ。」とて、縁へ呼びのぼすれば「いと見苦しくかたはらいたく侍れど、法華經にところをおき奉り給はむを、強いていなび聞えむも罪得侍りぬべし。」とて縁に上りたれば、「同じくはこれに」と〔て〕、中門の廊に呼びのぼせて、疊など敷かせて、据ゑられたり。「十羅刹(らせち)の御紱に殿上ゆるされ侍りにたり。まして後の世もいとゞ褚もしや。」など聞えて、ところどころ打ちあげつゝ讀み奉る。「いと思はずに僧などだにかばかり〔讀むはありがたかめるを。」とて、若きおとなしき〕添ひゐて、七八人と居並みて、「今宵は御伽してやがて〔かくて〕ゐ明かさん。月もめづらし。」などいひて集ひあはれたり。一部讀み果てて、「滅罪生善。」など數珠おし擦りて、「今はやすみ侍りなん。」とて、寄り臥しぬれど、この人々はゐてさまざまのそゞろごとどもいひ、經のよきあしきなど賞め譏り、花・紅葉・月・雪につけても、心々とりどりにいひあへるも、いとをかしければ、つくづくと聞き臥したるに、三四人は猶ゐつゝ、物語をしめじめと打ちしつゝ、「さてもさても何事かこの世にとりて第一に捨てがたきふしある。各心に思されむこと宣へ。」といふ人あるに、


<現代語訳>
一 いとぐち


 八十と三年の月日がむなしく過ぎてしまったことを思えばとても悲しく、たまたま人と生まれた思い出に、後世の形見にするほどのこともなく死んでゆく悲しさのあまり、髪を剃り衣を染めて、わずかに姿ばかりは仏門に入ったものの、心はまるで以前とかわるところがない。歳月が積もっていくに従ってますます昔は忘れがたく、過ぎ去っていった人を恋しく思う気持ちにまかせてひたすら人目を忍んで泣いたりしているものだから、(それを拭う)衣の袂が乾く時間もない慰めにと花籠を腕に掛けて、毎朝露を払いながら、野辺の草むらに入って花を摘み、仏様に奉仕する行いだけをして、数多の年を過ごしたので、だんだん白髪は増え、顔も皺だらけになって、鏡に映る姿もますます見るのが辛く、我ながらうとましいので、人に見られることはもっと気恥ずかしいのだけれど、道すがら花を摘みつつ、東山のあたりをあれこれとぐずぐずしているうちに、徐々に日も暮れてきて、引き返す家も遠かったものだから、どこでも行きあたったところで横になってしまおうと思って、「三界無安猶如火宅(さんがいにやすらぎなくなおかたくのごとし=この世に安らぎはなく、苦しみに満ちている)」と口ずさみながら歩いていったところに、最勝光院の大門が開いていた。
 うれしく思い入っていくと、御堂の飾りや仏像のご様子などがとても立派で、浄土もこんな風だろうと、一層そちらへ進みたいと思う気持ちが湧いてくる気がして、昔からたくさんの願い事をして拝んではきたけれど、これほどまでに心を惹きつけられたことはなく、金銀の箔をぬった柱や美しい荘厳具を始めとして、障子の絵にまで見所があるのを見るにつけても、(ここにお住まいになった建春門院さまは)まず今生で幸福をお極めになり、また来世も素晴らしくていらっしゃるのだなと、うらやみ伏し拝んでから建物を出ると、西に向かい京の方へ歩んでいくと、都の中とはいえ、このあたりは甚だ山里めいて風情がある。
 五月十日宵のころに、この数日降っていた五月雨が止んだのを見計らって外出すると、夕日が鮮やかに出ていて素晴らしく、ホトトギスまで連れ添うように歌いかけてきて、冥途の友だと思えば、歌声は耳について
  をちかえりかたらふならば時鳥しでの山路のしるべともなれ
 (ホトトギスよ、遠方からの帰り道にくりかえし歌いかけてくるならば、冥途への道も指し示しておくれ)
とふと思われ続けて、このあたりには人里もないのだろうかと、はるばる見渡せば、稲葉をそよがせる秋風を遠く思う早苗が、青々と生え渡っている様子など、やけに都から遠ざかってしまった心地がしていたところ、古ぼけた檜の皮で屋根を葺いた建物が遠くから見える。
 どんな人が住んでいるのだろうと、しみじみと目に留まって、やっと近付いて見てみれば、土壁は所々崩れ、門の上は荒れ果てて人が住んでいるようにも見えない。わずかに寝殿や対、渡殿といったような家屋も、人が少なくひっそりとしている様子である。庭の草もとても深くて、光源氏が露をかきわけたような蓬が我が物顔している中を分け入って、中門から入ってみると、南側の庭は非常に広く、呉竹が生え広がっていて、卯の花垣根の様子などは、きっとホトトギスが陰に隠れるだろうほどだ。山里のように見える。庭先の草木はところどころとても多く見えるのだけれど、まだ咲かない夏草の繁みがむさ苦しい中に、ナデシコキンセンカが気持ち良さそうに咲き誇っている。軒のそばにある桜の若木など、花盛りを思わせる木立が赴き深い。南側の二間ほどは仏間ではないかという感じに、紙障子が白々と閉じられている。不断香の煙が煙たいほどに漂い満ちて、名香の香りが芳しい。とにかく仏様がいらっしゃるのだと思うととても嬉しく、花籠を腕に掛け、檜笠を首にかけて、縁側のはしに近付くと、寝殿の南東隅から二間ほど上がったところにある御簾のなかで、筝の音がかすかに聞える。とても奥ゆかしく心引かれていると、若々しい女性の声で、「なんと哀れなご様子なのでしょう。あれほどのお年でありながら、どんなお気持ちで見るのも辛いようなことをなさっているのでしょうね。小野小町が腕に掛けていたという籠よりはましなものをお持ちのようですけれど。」などという人がいる。「阿私仙(釈迦が出家した直後に教えを願った学者の名前)にお仕えしたという釈尊の御心よりも稀な心がけに思われますこと。」などというところから始まって、同じくらいの年頃の若い人が三四人、生絹の衣や練貫などのひどくくたびれたのを着て縁側に出てきた。その様子は古びて汚らしいというよりは、感じがよさそうに見える。
「いったいどんなご身分のお方だったのでしょう。」などと興味深げに尋ねあっているので、「このひどく見苦しいありさまを見咎めもせず、お若いのにそれほど慈悲深くていらっしゃるのは、このように御仏のおそばにお仕えしているからなのでしょうね。」などと言い始めて、「若い頃の様子など、人並みに語り聞かせるほど聞きどころがあるとお思いになられるほどのことはありません。ただ年相応に、趣深いとか興味深いとか、素晴らしいなどと色々お思いになられるだろう話は聞いてまいりましたけれども、ずいぶん昔のことではっきりと覚えてもおりませんので、取るに足らぬものです。」と申し上げたところ、「それはぜひお聞きしたいものです。ええもうご自身に起こった出来事も耳にした世間の出来事も、包み隠さずこの御仏の前に打ち明けてくださいまし。」と言われたので、昔話がほんとうにしたくなってしまい、花籠や檜笠を縁側に置いて、勾欄(縁の外周に巡らされた柱の部分)に寄りかかった。
 「誇れることではございませんが、未熟ながらも十六七の頃より、皇嘉門院(藤原聖子・崇徳天皇中宮=妻)の母君、北の政所(藤原宗子)にお仕えし、讃岐院(75代崇徳天皇・在位1123−1142。1156年保元の乱後白河天皇側と争い敗北した。)や近衛院(76代近衛天皇・在位1142−1155)が位にあらせられた御代には、宮中にも時々参りました。そうして(北の政所が)逝去されて、女院(皇嘉門院)にお仕えすべきだったのでしょうけれど、何もせぬままに混乱のさなか(保元の乱が起こり皇嘉門院が出家した)で花に慰めを求め、宮中で月を眺めていたいような気持ちが強うございました。後白河院が(天皇の)位にあらせられて、二條院春宮と御名乗りあそばされていた頃、まだまだ一人前とは言いがたい有様ではありましたけれども、自然と振る舞いも身につけていたものですから、とある方に認められ親しくしていただいて、六條院(79代天皇・在位1165−1168)や高倉院(80代天皇・在位1168−1180)の御世まで時々お仕えいたしましたけれども、白髪も見苦しくなってまいりましたので、剃髪して山里に籠もり、一部(法華経の一部、二十八巻)を読み奉ることを怠らぬようにしてまいりました。今朝は早く出てきて、あちらこちらと道に迷っているうちに、今まで怠けておりました。」と言って、首に掛けた経袋から冊子経(巻物ではない、冊子状の経)を取り出して読んでいると、「暗いですが大丈夫ですか。」と言われ、「今は読みなれたものですから、夜もかろうじて読むことができます。」と言って、一巻の終わりのあたり、方便品比丘偈(ほうべんぼんびくげ)などを、ひっそりと声を抑えて読み上げると、ひどく驚いた様子で、「もう少し近くで聞かせてください。」と言って縁側に上がらせようとするので、「とてもみすぼらしい格好でおそばにいくのは心苦しいのですが、法華経を大事に思ってくださっているというのに、無理にお断りするのも罪深いことでしょう。」と言って縁側に上がると、「いっそのこと、こちらに。」と、中門の廊下に連れられ、畳を敷かせて、座らされてしまった。「十羅刹(法華経を読誦するものを守る悪鬼)のご加護でお屋敷に上がることを許されました。来世ではますます心強いことです。」などと申して、ところどころを声を出してお読みする。「本当に思いがけないことで、僧でさえこれほど読むことは滅多にないでしょうに。」と言いながら若く思慮深い人々が加わってきて、七八人と居並んで「今夜はお喋りをしてそのまま夜明かししましょう。月も美しいことですし。」などと言って集まっている。一部を読み終えて、「滅罪生善(めつざいしょうぜん)。」などと数珠を擦り合わせ、「これくらいにして休みましょう。」と寄りかかって横になったのだが、この人たちは残って色々ととりとめのない話をし、経のよしあしなどを褒めたりけなしたり、花や紅葉、月、雪に関しても、思い思いに気持ちを言い合っているのがとても面白く、じっくり聞きながら横になっていると、三四人はそのまま残って、しみじみと語り合っており、「ところで、この世で一番に捨てがたいものはありますか。一人ずつ、心に思うことを言いましょう。」と言う人がいて、(一章はここまで)