無名草子三 文

三 文


 又此の世にいかでかゝることありけむとめでたく覺ゆることは、文こそ侍れな。枕冊子に返す返す申して侍るめれば、ことあたらしく申すに及ばねど、猶いとめでたきものなり。遙かなる世界にかき離れて、幾歳あひ見ぬ人なれど、文というものだに見つれば、たゞ今さし向ひたる心地して、なかなかうち向かひては思ふ程も続けやらぬ心の色もあらはし、いはまほしきことをもこまごまと書きつくしたるを見る心地は、めづらしく、うれしく、あひ向かひたるに劣りてやはある。つれづれなる折、昔の人の文見出でたるは、たゞその折の心地して、いみじくうれしくこそ覺ゆれ。まして亡き人などの書きたるものなど見るは、いみじくあはれに、歳月の多く積りたるも、たゞ今筆うちぬらして書きたるやうなるこそ返す返すめでたけれ。なにごともたゞさし向ひたる程の情ばかりにてこそ侍るに、これはたゞ昔ながらつゆ變ることなきもいとめでたき事なり。いみじかりける延喜、天曆の御時の舊事(ふるごと)も、唐土、天竺のしらぬ世の事も、この文字といふものなからましかば、今の世の我らがかたはしも、いかでか書き傳へましなど思ふにも、猶かばかりめでたきことはよも侍らじ。」といへば、


<現代語訳>


三 手紙


 手紙というものは、どうしてこのようなものがこの世にあるのだろうと思われるほどに素晴らしい。『枕草子』に繰り返し書かれているので、また改めて言うことでもないのだが、やはり本当に素晴らしい。遠いところに離れてしまって、何年も会っていない人でも、手紙さえ読めば、まさに今向かい合っているような気分になる。会っていてはかえって思うほどには言葉を重ねることのない心情をあらわにして、言いたいことを細々と書いてあるのを読む心地というのは、愛しく、嬉しい。どうして直接会うことよりも劣っているなどということがあるだろうか。

 退屈なとき、昔知り合った人の手紙が出てくると、受け取ったときの気持ちが甦って、とても嬉しく感じられる。まして亡くなった人の書いたものであれば、とても情趣が深くて、たった今筆を墨でぬらして書いたようなのも、返す返すも素晴らしいものだ。

 どんなことでも、ただ対面している間だけ感じることばかりだというのに、これは、まったく昔のまま、露ほども変ることがないというのも、とても素晴らしい点である。

 たいへん良かったという延喜、天暦の時代の出来事も、中国やインドといった知らない世界のことも、現代のわたしたちの些細な数々であっても、この文字というものがなければ、どうして書き伝えることができるだろうと思うにつけても、やはりこれほど愛すべきものはあるはずがないと思う。」と言えば、