大江健三郎/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ

とっても珍しいことに爽快感のある一篇。


前作は様々な反響を生んでいた。テレビ・ドラマ化の話。「河馬の勇士」にどうしても連絡を取りたいという若い女性からの連絡。「河馬の勇士」への取材に協力してほしいという報道写真家からの手紙。物語は若い女性とのやり取りを軸に展開していく。


大江健三郎は自らの「父性」から目を背けている、と書いたけれど、この「河馬に噛まれる」連作では徐々に作家が父らしい面を強調し始めている。それは青年を励ます様子であったり、この小説のはじまりでのイーヨーとの電話──国際電話で遅延に悩まされつつの──で、てきぱきと指示を与える場面に表れている。「中年も下降期にある」作家自身、そこから目を背けてはいられなくなったということなのだろう。タルコフスキーの「ストーカー」をじっくり鑑賞した今となっては事情はほんとうに複雑だ。それでも、作家はとにもかくにも父として振舞っている。


当初、女性に力を貸すことは難しかった。それが報道写真家からの手紙で可能になる。アメリカからの帰国後間もなく登壇した、区の市民講座にやってきた女性に手紙を手渡して、作家はいまや実在の人物だと確認された「河馬の勇士」と女性(石垣ほそみ(・・・))のなりゆきを見守ることになる。ウガンダに渡った彼女からの手紙で物語は幕を閉じる。


青年の成長と女性の逞しさにうれしくなった。青年は無礼な報道写真家を見事に撃退し、ウガンダまでやってきた女性に確かな頼もしさと男性的魅力を感じさせる。一方の女性は作家の妻と作家自身の信頼をたくみに勝ち取って協力を得、クイズ番組の優勝賞金(!)でウガンダ行きの資金を稼ぎ出す。二人が今後「パラダイス」──それはきっと、その言葉が連想させるような華々しさとは無縁のものだろうけれど──の建設に成功するかどうかは未知数だ。けれどそれを応援したくなるような気持ちで私はこの作品を読み終えていた。「石垣」「ほそみ」「しおり」「さび」それにマルクス主義を始めとする「大きな物語」と、個人的にも縁を感じる作品。


大江健三郎の「父性」にまつわる転換を感じさせる箇所は他にもある。
まずは冒頭のテレビ・ドラマ化に期待をかけるところ。


 もうひとつの理由は、僕にとって切実なものだ。年を加えて、すでに中年も下降期にある自分の作品世界が、若い才能によって引っくりかえされる眺め。それを見ることができるなら、なにより恰好な自己批評の契機であろう。(p.717)


そしてもうひとつが、幕切れ間際のこの部分。


 遠からず僕の前に立ち、返答を示すつもりだという「河馬の勇士」に向けて、こちらこそ態勢をととのえておかねばならない。(p.744)


ゆったりと差し招く言葉に、思わず立ち向かっていくよう誘われてしまう。私がこれまで一篇一篇を論じてきたのはほんの他愛もない動機からだけれど、どうやら私はまだ、大江健三郎の手のひらの上にいるらしい。