文学

「玉藻」最終話

次の日、『玉藻』の記録撮影のためにやってきたのは、真っ黒なサングラスの怪しげな男だった。ぼくとマコ姉は二人揃って玄関でその男を出迎え、マコ姉はあいさつと、ぼくら二人分の自己紹介を済ませると、じゃあ、撮影はどちらでなさいますか、と尋ねた。 す…

「玉藻」14

「ただいまー。」 という声がどこかから聞こえて、どやどやといくつかの足音が聞こえた。 パチッ、という照明のスイッチの音がして、途端にシホの甲高い声が響いた。 「うわあおう、二人とも、いつの間にそんな関係になってたのよお。」 すぐさま京子伯母さ…

「玉藻」13

「触らないでよ、ぼくの本に。」 マコ姉はさっきの出来事なんて覚えてないみたいに、いつもの調子で答えた。 「いーじゃん。どーせあんた読めやしないんだから。」 この一言で、またぼくの理性は決壊してしまった。 「いいから返せよ。勉強してすぐに読める…

「玉藻」12

ぼくははしゃぐマコ姉をじっと睨みつけていた。何も答えなければ、すこしは頭を冷やしてくれるかと思ったからだ。信じられない。ぼくは身体の芯から震えるような怒りを覚えていた。マコ姉は、ひたすらお祭り騷ぎを続けていた。 「勝手なことしないでよ。誰が…

「玉藻」11

「玉藻、か。」 マコ姉がぽつりとつぶやいた言葉に、ぼくは耳を疑った。 「知ってるの、マコ姉?」 「いや、知らない。読めるだけ。」 「読めるだけでもすごいよ。へー、たまもって言うんだ、この本。どういう漢字なの?」 んー、と言いながらマコ姉はあたり…

「玉藻」10

結局、作業完了までには一週間かかった。ぼくとおじいちゃんは毎朝早めに朝食を済ませ、日が高くなる前に作業を終え、昼食をとってから午後の時間を過ごした。午後には近所の市民プールに泳ぎに行ったり、おじいちゃんに映画館や喫茶店に連れて行ってもらっ…

「玉藻」9

「ごちそうさまでした。おいしかったあ。」 何はともあれ、晩ご飯は終了した。自分の食べた食器ぐらいは片付けようとしたら、シホとマコ姉にギロリと睨まれ(私たちまでしなきゃいけなくなるだろ、って意味だと思う)、しかも台所の前で京子伯母さんに、 「…

「玉藻」8

「しょうたー。おっきろー。」 鼻のあたりがムズムズする。背中に当たる畳の感触がじわじわと意識に上ってきて、あ、おじいちゃんちに来てたんだっけ、晩ご飯かな、と思ってうっすら目を開けた。ぼやけた視界がはっきりとしたとき、目の前に現れたのは、ぼく…

「玉藻」7

「いらっしゃい。よーく来たわねえ。」 おじいちゃんが玄関から「帰ったぞ」と声を掛けると、おばあちゃんがパタパタと台所のほうから出てきた。おばあちゃんはいつもエプロンで手を拭きながら現れる。 「まずはご先祖様にごあいさつしてきなさい。そのあと…

「玉藻」6

歩いているうちに繁華街が終わり、おじいちゃんのうちが近付いてきた。ぼくはそれまで以上に周囲をキョロキョロと見回し始めた。建物じゃない。道路や電線でもない。家々の向こうに見える山並みや、森でもない。でも、前にここに来たときと何かが違う。 「ね…

「玉藻」5

七月後半、待ちに待った夏休みがやってきた。 母さんは宣言したとおり、三人分だけしか航空券とホテルを予約しなかった。予約を取るときにかなりしつこく「本当にこれでいいのね」と確かめられたけど、ぼくは何度聞かれても同じ返事しかしなかった。そのあと…

「玉藻」4

すっかり忘れてた。ぼくは程よい温度になったカレーを勢いよく掻っ込んだ。なんだ、知らなかったのか。ホッとしたような、物足りないような気分だった。ひどいことを言ったのが父さんに知られなかったのは良かったけど、母さんにとっては父さんに話すほどの…

「玉藻」3

居間に母さんたちはいなかった。テーブルの端っこに座って、カレーが温まるのを待つ。父さんはカレーが焦げ付かないように時々かき混ぜながら、つまみの支度をしている。冷奴と枝豆を小皿に盛り付けて箸のそばにトンと置くと、冷蔵庫からビールを取り出す。…

「玉藻」2

「あのさあ、母さん。どうして今年に限って他のところに行きたいなんて言い出したの。」 返事はない。母さんはじっとぼくを睨みつけている。 「……別に理由なんてない、かな。違うよ。理由ならある。自分じゃ気付いてないだけさ。こないだ、ゴールデンウィー…

「玉藻」1

夏休みに、おじいちゃんちに行けなくなるかもしれない。父さんが仕事で行けないのは毎年のことだけど、今年は母さんまで「たまには他のところに行きたい」と言い出したのだ。カナはすぐに母さんと一緒になって「高原なんて涼しくて良さそう」とか「海外のビ…

無名草子 十四 今とりかへばや(原文)

十四 今とりかへばや 「〔げに〕源氏よりはさきの物語ども、宇津保を始めてあまた見て侍るこそ皆いと見どころ少く侍れ。古代にし古めかしきことわり、言葉遣ひ歌などはさせる事なく侍るは、萬葉集などの風情に見え及び侍らぬなるべし。など唯今聞えつる『今…

無名草子 十三 かくれみの

十三 かくれみの 又「『かくれみの』こそめづらしき事にとりかゝりて、見どころありぬべきものの、餘りにもさらで〔も〕ありぬべき事多く、言葉遣ひいたく古めかしく、歌などわろければにや、ひとてにいはるゝ『とりかへばや』には殊の外におされて、今はい…

姉の娘

姉はほんとうに美しい人だった。私は幼い頃から、美を称える言葉というのは姉のために用意されているのだと思っていた。柳眉、という言葉を知れば姉の眉を見た。白皙、という言葉を知れば姉の肌を見た。白魚のような指、というのは姉の指のことであろうと思…

無名草子十ニ とりかへばや

十二 とりかへばや 又、「『とりかへばや』こそは〔言葉〕續きもわろく、物恐ろしくおびたゞしきけしたるもののさま、なかなかいとめづらしくこそ思ひよりためれ、思はずにあはれなる事どもぞあんめる。歌こそよけれ。四の君こそいみじけれ。あらまほしくよ…

無名草子十一 玉藻

十一 玉藻 又、「『玉藻』は如何に。」といふなれば、「さしてあはれなる事もいみじき事もなけれども、『親はありくとさいなめ』と、うち始めたる程、何となくいみじげにて、おくのたかき。物語にとりては、蓬の宮こそいとあはれなる人、後に尚侍(ないしの…

無名草子十 濱松中納言物語(現代語訳)

それから、「『みつの浜松(浜松中納言物語の異名)』は『寝覚』や『狭衣』ほど世間に知られてはおりませんが、言葉遣いを始めとして、何事も素晴らしく、しみじみとした情趣といい、哀しみといい、物語を作るのであれば、このように心引かれるものであって…

無名草子十 濱松中納言物語(原文)

又「『みつの濱松』こそ『寢覚』・『狭衣』ばかり世の覺えはなかめれど、言葉遣い有樣を始め、何事もめづらしく、あはれにも、いみじくも、すべて物語を作るとならば、かくこそ思ひよるべけれと覺ゆるものにて侍れ。すべて事の趣めづらしく、歌などもよく、…

無名草子九 夜半のねざめ(現代語訳)

九 夜半の寝覚 『夜半の寝覚』には取り立てて素晴らしい場面もなく、またさして見事と言える箇所もないのですけれど、最初から主人公である中の上ただ一人のことを書き、一心不乱に、しみじみと情趣豊かに心を込めて創作していた様子が目に浮かぶようで、趣…

無名草子九 夜半のねざめ(原文)

九 夜半のねざめ 寢覺こそ取り立てていみじき節もなく、又さしてめでたしといふべき所なけれども、初めよりたゞ人ひとり〔の〕ことにて、ちる心もなく、しめじめとあはれに心入りて作り出でけん程思ひやられて、あはれにありがたきものにて侍れ。いづくか少…

無名草子八 狭衣物語(現代語訳)

八 狭衣物語 また、「幾多の物語のなかで、素晴らしいとお思いになられたものや、つまらなく感じられたものを教えてください。」と言うので、「それも見ずに語るのはなかなか難しいものですが。」などとためらいがちではあったけれど、「『狭衣物語』は『源…

無名草子八 狭衣物語(原文)

八 狭衣物語 又、「物語のなかにいみじともにくしとも思されむこと仰せられよ。」といへば、「そも諳には。」など憚りながら、「狭衣こそ源氏につぎてはよ〔う〕覺え侍れ。『少年の春は。』とうち始めたるより、言葉遣ひ何となくえんに、いみじく上ずめかし…

無名草子七 源氏物語 ニ ふしぶしの論(現代語訳) 

ニ 場面の論 また例の人が「人物の様子は一通りお聞きしました。それでは、趣深いところでも素晴らしいところでも、心に沁みて感動的な場面を仰ってください。」と言うと、「ずいぶんと手の掛かるわがままなお方ですこと。」と大笑いしながらも皆が口々に言…

無名草子七 源氏物語 ニ ふしぶしの論(原文) 

ニ ふしぶしの論 又例の人「人の有樣はおろおろよく聞き侍りぬ。あはれにもめでたくも、心にしみて覺えさせ給ふらむふしぶし仰せられよ。」といへば、「いとうるさき慾深さかな。」なんど笑ふ笑ふ、「あはれなることは桐壺の更衣の失せし程、帝の歎かせ給ふ…

無名草子七 源氏物語 ハ 男の論(現代語訳)

ハ 男の論 またさきほどの人が「男の方ではどなたがご立派でしょう。」と言うと、「源氏の君の良し悪しを決めてしまうなんてもったいないことですし聞きたいとも思いませんから申しませんけれど、どうしても言いたくなってしまうこともたくさんございます。…

無名草子七 源氏物語 ハ 男の論(原文)

ハ 男の論 又例の人、「をとこのなかには誰々か侍る。」といへば、「源氏の大臣の御事はよしあしなど定めむも、いとことあたらしくかたはらいたきことなれば、申すに及ばねども、さらでもと覺ゆるふしぶし多くぞ侍る。先づ大内山の大臣、若くより互に隔てな…